竹宮惠子氏は上京、マンガ家としての生活を始める。その生活の詳細は、自伝『少年の名はジルベール』(小学館刊)に描かれ、ファンの間で伝説となっているとおりである。竹宮氏はここで、萩尾望都氏や山岸凉子氏と交遊し、自分なりのマンガ哲学を確立していく。竹宮恵子氏が若い世代に伝えたい〈マンガの創造性〉とは何か。その最終章。
萩尾望都さんと共同生活を
東京に出てきた私は、トキワ荘に憧れてマンガを愛する仲間たちとルームシェアをはじめました。部屋は狭くて仲間との距離が近く、生活道具も私がもってきたものを共有するような生活でした。それは、のちに〈大泉サロン〉と呼ばれるようになる部屋でした。この大泉サロンでの生活は『少年の名はジルベール』に詳しく記しました。
この大泉サロンは、新人だった萩尾望都さんとの共同生活の場でしたが、私はそれだけではなく、マンガ好きな人がいつでも集まって語り合えるような場所にもしたいと思っていました。サロンには佐藤史生さんやささやななえこさんなどが集まっていました。山岸涼子さんは、群れたり影響しあうのが苦手な独立独歩の人ですが、時々外から遊びに来たり。いろんな人がふらりと来て何日か泊まったり、何も言わずに帰っていくような、そんな場所でした。
「こんなに狭いの!?」と言われる間取り。4畳半の部屋にはいつも5、6人の人がいて、こたつに入れない人が出てくる。でも狭いから暖かい。2階はマンガを描くスペースで、萩尾さんコーナーは、日本風の座るスタイル。私は当時からベッドを持ち込んでデスクと椅子で描く洋風スタイル。レコードプレーヤーなども共有したつましい生活でした。
そんなマンガ仲間に囲まれた切磋琢磨が、マンガ技術においても物事への興味の向け方においても、「個性の差」を否応なしに自覚させるようになりました。 自分が自分でなければならないことへの確信と不安。「自分」でなければ健康でいられないわけです。
マンガ仲間同士のなかで立ち位置をどう決めるかは、みんなにとって大事なことでした。「違いの主張」を口で言うだけでなく、マンガの画面上で表現できなければ負けだということがわかっていました。
これは、マンガをただ愛していればよかった蜜月との別れでもありました。