「あんた文章を書いてごらん、あんたには書くという才能が入っとる」
なんて占い師が言うものだから、その言葉を信じ、文章を書いたら、書ける、じゃないか、で書き連ねていったら気がつけば百枚超えるような長編小説を書いていた
私って文才あるかも、って調子こいて公募に応募した。
才能があるんだからすぐにでも文学賞受賞して作家デビューだぁ!なんて思っていたら、これがどっこい、そうは問屋は卸さない。
書く→出す→ボツの連続で作家デビューなんて夢の夢、であの占い師のばあさんめ! とんだ食わせもんだったわい、って誰を恨んだところで結局、自分の才能のなさを嘆くだけで終わった。
だんだん公募疲れし、さらに目もかすんでくるはで長編を書く体力も失せてきた。まったく寄る年波には勝てない、で小説どころかエッセイでさえも長い文章が書けなくなった、
もう作家になるのはあきらめかけていたら、最近俳句甲子園だのテレビでも俳句番組があるのを見て、俳句なら超短い。
短い文ならいいじゃないかと、俳句に方向を変えた。
さっそくカルチャーセンターの夏井いつき俳句講座に受講申し込みをした。テレビでも名の知れた先生だけに受講をしてもすぐには受講できず、なるほど俳句人気に夏井先生人気で受講希望者続出なのを思い知った。ようやく一年待ちで受講することができた。
たった十七文字程度だからと甘くみていたら、これが大間違いだった。指折り数えて十七文字に収めるだけがやっとの私の俳句は「迷句」でしかなく、それにひきかえ受講者の方々はさすがに俳句の心得のあるかたばかりだけに見事に情景を織り込んだ「名句」ばかりで顔が赤らむ思いだった。
このたった十七文字の中に「背景を切り取り」、「情感を詠む」ということの難しさを思い知った。
それだけにこの少ない文字数の中にどれだけ作者の「思い」や「感情」を盛り込めるかというのが難しい、また難しいからこそ面白いともいえる。
なるほど簡単なようで難しい、難しいようで簡単にはいかない。
結局、どうあがいても難しいってことじゃないか。
そこはそれ、簡単にできないからこそ面白いともいえるのだ。
何より一番勉強になったのは季語である。
季語は俳句においては絶対で、季語があることによって同じ夕暮れでも秋と春とでは違うように、季語によって情景や趣きが驚くほどに変わっていくのだ。
それだけに季節を表す日本語がこれほどまでにあったのかという驚きにもなった。
改めて日本語の美しさというのを再認識することにもなった。
季語を勉強することで辞書をひくようになった。
さらにほとんどワープロで書くことが多かったのが、やはり俳句は手書きというのが味わいがあるので手で書くようになった。
手で書くようになると不思議に手が覚え、頭に伝えるせいか、きちんと脳細胞に刻まれるのである。
ちゃんと覚えている、というのは何よりの収穫だった。
さしずめボケ防止にもなるじゃないかと我ながら小さな得を得た思いでいる。
総じて文章でも電話でも長々しゃべっても、長々書いても結局頭に入るのは数語しか残らないのだ。
だからこそ話は短く、文章も短いほうがいい。
短ければ短いほどいいが、文章は短ければ短いほど難しいともいえる。
十七文字が織りなす季節の移ろい、人生における吉備、これをいかにして表現するか、この妙義を身に着けるべく悪戦苦闘している。
いつの日にか「迷句」脱却し「名句」にたどりつきたい、そう思いながら作句に取り組む日々である。
(作文の一部に編集室が文字の修正などをしています)