15才の少年隊員に人体実験を手伝わせた731部隊

常石敬一神奈川大学名誉教授「731部隊とは」(その2)

戦時中、中国の満州で、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発のために、捕虜やスパイ容疑で拘束した多くの中国人、モンゴル人、ロシア人などを、マルタ(実験材料となる人々の呼称)と呼び、人体実験の犠牲とした731部隊(関東軍防疫給水部本部)。部隊には数多くの年若い少年隊員も含まれていた。(前の記事「なぜ731部隊は罪悪感なく人体実験ができたのか」)

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戦時中、中国の満州で、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発のために、捕虜やスパイ容疑で拘束した多くの中国人、モンゴル人、ロシア人などを、マルタ(実験材料となる人々の呼称)と呼び、人体実験の犠牲とした731部隊(関東軍防疫給水部本部)。部隊には数多くの年若い少年隊員も含まれていた。(前の記事「なぜ731部隊は罪悪感なく人体実験ができたのか」)

初期の731部隊を支えた少年隊

731部隊研究の第一人者・常石敬一神奈川大学名誉教授は今秋、神奈川大学で「科学と戦争と人々――満州731部隊の歴史と素顔」と題し、1990年代後半に神奈川大学STSセンターが記録した731部隊関係者の証言を視聴しながら731部隊について学ぶ社会人向け講座を開催している。

その証言者の年齢があまりに若くて驚く。1938年に731部隊に入った時の年齢が、15才、17才、18才……といった具合なのだ。彼らは軍人ではなく、民間人のまま軍に雇われた軍属だった。

「731部隊が正式に発足したのは36年。38年からどんどん隊員数が増えていきます。ただし招集した兵隊がもらえるようになるのは40年。少年隊が加わるのは38年からなので、兵隊がもらえるまでは少年隊で間に合わせようとしたのか、それとも言うことを聞いて、なおかつ医学の知識もあり基礎トレーニングを受けた少年隊のほうが都合がよかったのか。

少年隊のメンバーはみんな、今でいう中学を出たか高校中退くらいの年齢。旧制高校に行って大学に行くような恵まれた家庭ではない子が多かったらしく、731部隊長の石井四郎は『見どころのあるやつは医科大学に行かせてやるぞ』と言っていました。実際、教育する気もあったんでしょう、少年隊の人たちは部隊で半年くらい教育を受けたうえで任務に従事していました」(常石先生)

全血液を搾り取る作業をさせられ

この少年隊員たちが、60代70代になってから証言をどんどんするようになった。その原点は“怒り”だと常石先生は言う。

「当時、18才だった松本さんがさせられたのが全採血(マルタを細菌感染をさせた後、ワクチン製造のために生きたまま全血液を鼠径動脈から搾り取る作業。当然マルタは死ぬ)。ものすごくいやだったと語っています。

15か16くらいだった鎌田さんは、ペストで死んだ日本人を墓の穴から引きずり出して、お腹を割いて内臓を取り出す作業をさせられた。

17か18だった鶴田さんはノモンハンで川の中に細菌を撒く作業をさせられた。だけどその時は何の細菌だったかわからなかった。1か月後くらいに、川で缶を開けていた班長が陸軍病院で腸チフスで死んだ。それで気が付くんですよね、あの時感染したんだ、自分たちが撒いたのは腸チフス菌だったって」(常石先生)

当時を思い出して語る彼らがその時に感じたのは、罪の意識というより薄気味悪さだったという。それが何十年も経って言いようのない怒りへと変わってきたと、常石先生は語る。

自らが感染源となったかもしれない夜桜特攻隊

証言者の中には、20才過ぎの二等兵の人もいた。それが小幡さんと溝渕さんだ。小幡さんは戦局が悪化した1945年春、「夜桜特攻隊」の17名の隊長の1人に選ばれた。

夜桜特攻隊というのは、731部隊長の石井自らが発案したもので、ペスト菌に感染したノミを一斗缶2つくらいに入れたのを持って散らばり、各所でばらまいてペストを蔓延させるというものだった。そのために731部隊では事前にノミの大増産をやっていたという。出陣予定は8月17日と決まっていたが、敗戦したため未遂に終わった。

この夜桜特攻隊について、「あれこそ石井の化けの皮がはがれた瞬間だ」と言ったのが溝渕さんだ。溝渕さんは当時のことを思い出し、こう語っている。

「あんなものはやぶれかぶれの戦法だ。特攻隊長自らがペストに感染して、自分が感染源となるだけの話だ」(溝渕さん)

「珍しい部隊で珍しい体験をした」

1945年8月9日未明、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻してきた。その時のことを小幡さんはこう証言している。

「8月9日にソ連との対戦が始まり、その晩から部隊では上を下への大騒ぎとなり、全部焼いてしまえということになりました。13日の晩に発電所がダウンして、部隊の塀の上に巡らされていた電気が止まりました。すると村人が塀を乗り越えて米を盗んでいきました。そこで新人の二等兵48人を連れて米をもらいにいって、14日に戻ってきてみたら、もう脱出のための特別列車が出てしまっていました。線路に沿ってトラックで走りに走って、日本に帰る船が出港する釜山(プサン)に着いたのは、8月30日でした。米はありましたが火を使うとソ連兵に見つかるというので、大変な苦労をして帰ってきました」

731部隊のように重大な任務を帯びた部隊ほど先に脱出できたのだ。その特別列車に乗れた溝渕さんは、22日か23日に釜山に到着していた。

小幡さんが米を取りに行っている間に、証拠隠滅のため、生き残っていたマルタ全員の殺害が行われた。不在していた小幡さんはもちろん参加していない。また、溝渕さんはそれを目にしてはいたが、自らは関わっていないという。長年にわたって2人と付き合ってきた常石先生は言う。

「贖罪の気持ちがないわけではないし、二度と戦争という過ちを起こさないために伝えていきたいという強い意志があって証言してくれました。でも、悪いことはたしかにやったが、戦争だったからしょうがないという気持ちもあるんです。何より彼らを証言に突き動かしているのは、年々増していく怒りなんです。石井に対する怒り、軍に対する怒り、戦争に対する怒り。小幡さんと溝渕さんは少年隊より年長(といっても二十歳過ぎだが)だったから余計に怒りを感じていたのだろうと思います」

その溝渕さんが証言の中でもらした感想が忘れられない。

「珍しい部隊で珍しい体験をした」

この突き放したような言葉の中に、戦争のばからしさ、731部隊のばからしさ、そのばからしさの中で死んでいった人たちの無念がにじみ出る。

〔あわせて読みたい〕 
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取材・文・写真/まなナビ編集室(土肥元子)

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