自信をくれた先生のひと言
三歳から習ったピアノを、短大卒業の二十歳でやめた。社会人になり、実はピアノよりやりたいと思っていた、バレエのサークルに通い始めた。 “田舎じゃバレエ教室なんてなかったもんなぁ”
わかってはいたが、バレエもピアノと一緒で、小さい頃からやらないとなかなか身にならない。
「ちょ、ちょっと、目が回ってます…」
回転すれば壁が回り、必死になるほど左右がわからなくなる。初心者の大人にピアノを教える時、“ドレミ”と三つ音を弾くだけでも指がもつれ、途方に暮れるのと同じ状況だった。おせじにも、美しいとは言えない姿。しかし、レオタードに巻きスカート、ピンクのバレエシューズと恰好はばっちり。主婦中心のサークルはいつも笑いが絶えず、私は楽しくて仕方なかった。
ある日のレッスンの時、先生が言った。
「7月最初の日曜日に、町内の文化祭に出ます」
みんなのモチベーションを上げるため、上手い下手に関わらず全員出るという。憧れのバレリーナのように、舞台で踊るのだ。
「頑張らなくちゃ!」
スイッチが入った私に、かつてピアノの先生に言われた言葉がよぎった。
高校に入り、ピアノ専攻で音楽を学び始めた時のことだ。
「あなた、電子ピアノでやってきたんでしょう? 今から頑張ったって、みんなを越えられないから。追いつきたかったら、人の三倍弾きなさい。みんなが三時間なら、あなたは九時間。左手におにぎり持ったら右手が練習できるでしょう」
人と同じことをしていたら越えられない、それは何だって同じ。私は、通っていたスポーツジムのスタジオを個人で借りて練習することにした。一時間700円。ガラス越しに、筋トレ中の人達がチラチラと不思議そうに見ていた。どう見ても学生じゃないしどう見てもプロじゃない女性が、鏡の前で一人で踊っているのだ。それでも私は気にしなかった。自分が納得いくように踊りたかった。
「ずいぶん変わったわね、自主練してきた?」
ある日のレッスンで先輩主婦が驚いたので、ジムのスタジオを借りた話をした。そこまでする?と感心したような呆れたような顔。しかし、ストイックにやることは、長年のピアノの練習で身についた当たり前のこと。
文化祭の集合写真には、ふわふわのエメラルドグリーンのチュチュに本格的な舞台メイクで満足げな私の笑顔が写っている。
今は子育てが忙しく習い事はちょっぴりお休み中だが、“人の三倍やるのが当たり前”という学生時代にできた基礎があれば、何だってできそうな気がする。
先生、ありがとう。
〔紗菜さん(39歳)/岩手県〕
服役のちエッセイスト
人の人生は振り返ると面白い。私は勉強嫌いで成績も良くなかった。高校の進学は希望校と言うより入学可能な学校を選び卒業した。ここからが面白い。その後看護専門学校に入学した。当時でも男性看護師はマイナーな職業だった。在学中に医療刑務所を見学させてもらった。案内した医師は、「矯正施設では男性看護師は貴重だ」と誘ってくれた。クラスの大半が女性で病院の看護師となった。卒業後医療刑務所に就職した。男性受刑者と厳つい刑務官の中で技官として働いた。塀の中は「娑婆」とは異なった暗い雰囲気が漂っていた。幸い職場の上司が理解してくれ夜間大学への通学を認めてくれた。通学を理由に「娑婆」の空気に触れ大学での友達に会えるのはストレス解消でもあった。しかし、二十三歳の若さでは社会的に未熟で受刑者相手の仕事は「服役」と同様で楽ではなかった。二年半経過してチャンスが到来した。知人の紹介で東京都庁( 当時は丸の内にあった) から誘いが入った。割愛人事という公務員間の人事異動によって国家公務員から東京都の公務員になった。白衣からスーツとネクタイ姿になり精神衛生行政を担当した。大学では社会福祉を学び卒業も出来た。看護職だが臨床経験が少ないので精神障害者のリハビリテーション施設への異動希望を出した。精神障害者の社会復帰支援は容易でない。毎週定例の症例検討会議がある。担当ケースの支援計画の評価と鋭い指摘がなされた。精神障害者の個性や能力、希望を尊重した柔軟な対応を求められ行政事務とは異なった仕事になった。七年後精神保健センターの相談係長で異動した。アルコール依存症の家族や統合失調症の本人や家族会の人達と会う毎日が続いた。同時に保健師が地域で抱えている困難事例の症例検討会に参加した。保健所保健師と一緒に対応策を検討したが私の役割は助言者だった。研修会講師や大学の非常勤講師の依頼もあり私を成長させてくれた。
定年を前にした五十七歳の時、地方都市にある国立大学から「看護系短大が大学に移行する。経験を教育に生かして欲しい」と誘われた。妻は私の能力から無理と判断し反対した。しかし准教授として迎えられた。教壇に立つ一方で、大学院の法学研究科で学び修士の学位が取れた。妻も私の後を追って大学院に入った。私は六十歳を超え教授になれたが、授業の準備や学内運営で多忙となったので学術学会や論文書きに専念した。一方、妻は博士後期課程に進学した。私も悔しく思ったので医歯学総合研究科に再入学した。年間の授業料が四十万円程と記憶している。必要単位を取得しながら論文を書いた。五年間籍を置いたが博士論文は不合格だった。六十五歳が定年で退官した。私立大学に二年半勤務したが、家族との時間を大切にするため七十歳を前に退職した。
高校卒業後を振り返って見た。看護専門学校二年間、更に進学して二年、大学に四年、大学院博士前期課程二年、後期課程五年間学校で学んでいた。よくも長いこと学び続けたものである。
年金暮らしそして喜寿を迎えた。健康に恵まれ今は三本柱で暮らしている。① 家庭菜園で大根やナスなどの野菜作り、② 社交ダンスサークルでのレッスンに参加。八年目に入ったのでタンゴもチャチャチャも踊れる。③ 自称エッセイストとなり五月に八冊目のエッセイ集を自費出版した。新潟市では文芸作品の公募がある。小説、随筆、コント部門に応募して市長賞をもらったこともある。
小学校でも中学校でも作文を褒められた記憶がない。遅咲き人もいる。運命が助けてくれることもある。何事も学び続けていれば成長する。
〔信濃川一平さん(76歳)/新潟県〕
辞書を1ページずつ読み続けて
保険会社で入力業務をしている関係で、日頃から様々な病名や医療用語と対面し、格闘をしている。胃潰瘍や大腸癌、椎間板ヘルニアなど見覚えのある漢字なら迷うこともなくパソコンのキーボードを軽やかに叩くことができる。しかし、20年近くこの仕事をしているにもかかわらず、今まで一度もお目にかかったことのない難読漢字が出てくることがしばしばある。すると、途端に私の手は鉛のように重くなりキーボードの上で固まってしまうのである。そして、2、3度ほど想像力を働かせて試し打ちをしてみるのだが、該当する読み方に辿りつくことはほとんどできずにいる。
そんな時は「歩く生き字引」と呼ばれている温厚な上司にたずねることになる。だが、この上司は穏やかな口調で回答を教えてくれるのはいいのだけれど、一方で、自分を自慢するのが大好きで、その後、10分ほどはその自慢話に付き合わされることになる。おかげで、仕事が遅れてしまい残業する羽目になることが度々あるのが玉に瑕であった。
この温厚な愛すべき上司が5、6年ほど前、一度だけ私がたずねた漢字を見て、目を細めながら「こんな簡単な漢字がわからないのか」と嘆くように言ったことがある。その漢字が「初産(ういざん)」であった。
私は「初産」をどうしても「しょざん」としか読めず、上司にたずねたのだが、あとで同僚たちにこの話をしたところ大笑いされてしまった。おそらく、その場にいた十数人ほどの中で「初産」の読み方を知らなかったのは私一人だけだと思われたからだ。私は恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤に染めながら俯くしかなかった。
(このままではいけない。もう少し勉強しよう)
その当時、40代半ばであった私は、一念発起すべく本屋で分厚い医療用語専門の辞書を購入し、「あ」から始まる辞書を一枚一枚読んでいくことにした。だけれども、内容を読んでも理解できないことがほとんどであった。が、とりあえずは「読み方さえ分かればいいや」との軽い気持ちで読んでいったのが良かったのか、読み進めていくうちに不思議と意味がなんとなくではあるが理解できるようになっていった。そうすると、辞書を読むのが楽しくなり、毎日少しずつではあるが私は分厚い辞書を開いては読み進めたのである。
その結果、40の手習いではあったが、私の医療用語の知識は少しずつではあるが増えていき、今では上司に漢字の読み方をたずねることもだんだんと減ってきた。また、同僚たちから漢字の読み方をたずねられるまでになった。そんな時は少しばかり偉くなったような気になり、長々と得意げに話している自分がいた。
(これでは上司と同じではないか)
と、近頃は自己嫌悪に陥りながら反省しているのである。
〔ゆみちゃんさん(52歳)/神奈川県〕
学ぶことは、自分を見つめること
私はとにかく勉強が嫌いだった。
周りの大人は「勉強しなきゃ、社会に出てから苦労する」と口を酸っぱくして言っていたのを覚えている。それでも、勉強をしてこなかった私。
高校を卒業してから10年が経ち、そのツケが今頃回ってきた。
大人たちが言っていた「勉強が大切」という意味がようやく分かった。
3年前カナダへ留学した私は、英語はもちろん頭を”使う”ことや”考える”ことがとにかく苦手で、苦労した。
言語を学ぶのは、同時に文化も学ぶ必要もある。カナダは、他の国の人たちがたくさんいる。学校で習った歴史や社会、地理をほとんど勉強しなかった私には彼らの住んでいる国がどこなのか、どんな歴史的背景があるのか全く分からなかった。会話が広がることなく気まずい想いをしたことも数え切れないほどある。
学校で習う勉強の他にも大切なことは、”考える”こと。
私は、人の意見や人が『良い』というものに流されてきた気がする。
日本では、「仕事や勉強でも言われたことをやり続ければいい」と思っていた。何も考えずロボットのように生きていたし、客観的に物事を見るのもひどく苦手だった。そのため誰かが発した言葉のウラ側を考えようともせず、そのまま受け取り嫌な気分になったことも数え切れないほど。
英語もまだ人の助けがないとコミュニケーションが難しいこともある、ライターという好きな仕事を見つけるも、語彙力の少なさで似たような文章しか書けない。
自分のことを棚にあげて、人に嫉妬してけなして見下したりする…そんな自分が醜く悔しい。
勉強しなかったこと、”考える”ことを怠ったために起きるマイナスなこと、悪化する人間関係で苦しんだ私は、ついに「変わろう!」と決意。
まずは、成長の妨げになる嫉妬やプライドを探り紙に書き出す。そして物理的にプライド(紙)を捨てた。嫉妬する相手の”良い部分”と”悪い部分”を比べて安心するのではなく、相手と自分の”良い部分”を比べること。そこで生まれる相手と自分の良い部分の”差”を埋める。
そして「こうなりたい」と思う目標が定まったら、「どうすれば、目標にたどり着けるのか」という方法を絞り出していき、あとは実践あるのみ!
嫉妬する相手の良い部分を比べるのは、自身の成長と向上心に繋がる。具体的な目標は、自身の気持ちがブレずにそこにたどり着ける。
人間は、賢い脳みそを持っているからもっと”考え”なきゃいけない。
私もまだまだ勉強中で、分からないことや上手くいかないこともたくさんあるけれど、”学ぶ”ことで今まで見えなかった世界や物事が変わって見えるのが楽しい。今まで、卑屈だった自分自身が嘘のよう。
目標に向かって走り続けます! 時々、一休みしながらね。
〔まいまいさん(28歳)/京都府〕
(一部の作文に、編集室がタイトルやルビをつけ、文字の訂正などをしています)
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