仏教を保護する一方で神道の普及も行った源頼朝
貴族が支配する公家政権から、武士が支配する武家政権へ。日本の統治体制に大きなパラダイムシフトが起こった鎌倉時代。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が力を入れたひとつが、神道の普及だった。
その代表例が、鎌倉にある大社のひとつ、鶴岡八幡宮だ。源頼朝は当初は由比ヶ浜にあった鶴岡八幡宮を、1180年に現在の地に遷宮。1191年以降、鎌倉幕府の宗社として、上下の両宮を再建築し、流鏑馬(やぶさめ)や相撲(すもう)、舞楽などの神事を始めたとされている。
「私自身が源頼朝と鶴岡八幡宮に興味を持ったのは、鶴岡八幡宮で神職についていた父の影響です。幼い頃から鶴岡八幡宮は私にとってとても身近な存在でした。その後、大学に進学し歴史と神道を学んだ私は、誰も手をつけていないテーマを研究してみたいと思い選んだのが『なぜ、源頼朝は鶴岡八幡宮に深い関心を抱いたのか』ということでした」と語る岡田教授。
頼朝は戦死者の鎮魂や先祖供養のための仏教寺院を建立するなど仏教保護を行う一方で、鶴岡八幡宮を鎌倉に遷宮して神道の普及にも尽力する。その理由について岡田教授は、「地域社会の結びつきをより強固にし、社会の治安を維持するためだったのではないか」と指摘する。
大自然の神々に豊作を祈願し、収穫物を捧げることから
「頼朝公が鎌倉幕府を開いた頃は、平安時代後期の混沌とした不安定な社会が続いていました。公家の社会から武家の社会へという大きな社会変化が起こるなか、世の中を立て直し、社会システムを構築するために、頼朝公は地域共同体としての神道の役割を重要視していたのだと思います。
神道は、もともとは自然界にいる八百万の神様を敬う信仰です。日本は山がちで平地も少なく、自然災害も多いので、時には不作の年や飢饉の年もあったでしょう。それでも地域住民が互いに助け合いながら大自然の神々に向かって豊作を祈願し、無事に収穫ができたら、その収穫物を神に捧げて感謝する。こうした一連の循環の中で生まれた信仰が、神道のそもそもの成り立ちです。天皇の祭事として位置づけられたのは、古代の律令国家になってからです」
神道は地域から自然発生した土着の信仰。だからこそ民衆をまとめる上で大きな力になると頼朝は考えたのだろう。
天皇の祭事を代行することは、為政者の証拠
頼朝が鶴岡八幡宮をはじめとする神道普及に力を入れたもう一つの理由は、「天皇の祭事を行うことによる権威付け」ではないかと岡田教授は語る。
「天皇の祭事の中心地は、昔からずっと伊勢神宮と京都の神社でした。しかし、その場所は西の遠方にあり、頼朝が幕府を開いた鎌倉からはかなり離れています。そこで、天皇が本来行うべき国家的祭事の一部を、自分の領地である東国の鶴岡八幡宮で代行することで、関東での自分の権威や求心力を強めていったのだと思います。
鎌倉幕府以降は、室町時代の関東府や、戦国時代の北条早雲や織田信長、江戸時代の徳川幕府など、その時々の為政者たちが地域の大きな祭事を行うことが主流になっていきます。天皇の権威を代替して祭事を行うことは、為政者の証であり、治安維持の最善の策とされたんです」
神道では、犯した罪や禍も心がけ次第でリセットされる
混乱した世の中だからこそ、頼朝は神道の持つ「自然や現在あるものに感謝する」という姿勢を社会に普及させようとしていたのではという見方もある。なかでも象徴的なのが、頼朝の理念を盛り込み、北條泰時が制定した鎌倉時代の武士のための法令『御成敗式目(貞永式目)』のなかにある「神は人の敬によりて威を増し 人は神の徳によりて運を添ふ」との一節だ。
「これは、『神は人から敬われることで、より力を増し、さらに人はその神の力によって良い運がめぐってくるから、神を敬いなさい』という意味です。当時の仏教が、『生老病死』という人間の持つ4つの苦しみを、信仰によって乗り越え、死後の世界で幸せを得ようとする来世往生を目的としていたのに対して、神道には『悪いことをしても一生懸命、神に感謝し、心を入れ替えて取り組めば禍や罪はゼロになる』という現世利益的な考え方がありました。
この思想は、不幸にも自然災害で生活が破壊されても、一生懸命頑張ればまたイチからやり直せるということを日本人が経験的に学んでいたからこそ生まれたもの。実際、伊勢神宮が行う20年に一度の式年遷宮のように、一から神様の衣食住を新しくするという考え方も、こうした思想に基づいて生まれたのではないかと思います。激動の時代の変わり目だからこそ、こうした『悪いことがあっても、またやり直せる』という思想を根付かせることが、人々の心のよりどころになると、頼朝公は考えたのかもしれません」
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文・写真/藤村はるな