東日本大震災被災後、高台移転を早期に実現させた町がある。津波の大きな被害を受けた石巻市北上町。その移転復興に力を尽くした一人、仙台の建築家・手島浩之先生(都市建築設計集団/UAPPの代表/(公社)日本建築家協会宮城復興支援委員長)によるお話は、聞いているだけで心が熱くなる内容に満ちていた。
家屋の全壊・全流失546棟の町が
震災7年目にあたる2017年3月の立命館土曜講座は、〈東北の復興住宅・まちづくりの現在~復興の現場を通して見えてきた「住民主体の地域再生」と専門家の役割~〉と題して、立命館大学政策科学部特別招聘教授の塩崎賢明先生(後日公開)と、手島浩之先生によるダブル講演会となった。
仙台で建築設計事務所を営む手島先生はいま、(公社)日本建築家協会宮城復興支援委員長として石巻市北上町のまちづくりに関わっている。東日本大震災時、建築の専門家としてできることはないかと考え、これまでの日本各地の震災の復興を担った人々に話を聞く勉強会を行なうことから手島先生の活動は始まった。
2011年6月頃、手島先生は宮城県石巻市にある北上町とかかわることとなった。北上町は養殖漁業が盛んな町で「十三浜(じゅうさんはま)わかめ」が全国的に有名である。震災時の世帯数は約1150世帯、居住者は約3900人。震災とその後の津波で、死者211人、行方不明者85人、家屋の全壊・全流失546棟と、甚大な被害を受けた町である。
そんな北上町の住民が震災後のまちづくりで望んだのは「高台移転」だった。移転に向けて、各集落の住民・行政・さまざまな立場の支援者たちが一緒になって「まちづくり」が始まった。
全戸を対象にヒアリングを
北上町の高台移転がうまくいった大きな理由のひとつに、徹底したヒアリングに基づいて、早い段階から住民合意を形成できたことが挙げられる。
2011年7月にはいくつかの集落について高台移転案を試験的に立案、10月からは被災住民全戸を対象に、北上総合支所を中心に、支援者たちと集落ごとの説明会とあわせて個別ヒアリングを実施し、徹底して住民の声に耳を傾けた。その結果、震災から一年も経たない2012年2月からは、集落ごとに高台移転の合意形成に着手することができたのである。
これらワークショップ(住民との話し合い)やヒアリングは、とても時間がかかるが、「まちづくり」という住民全員がかかわる大事について合意を形成するには、絶対に欠かせないことだ。この頃、住民たち皆が話し合った意見を市長に答申できる枠組みをつくろうとの声があがり、その結果、2012年6月には「北上まちづくり委員会」が発足した。「まちづくり」を通して、行政に任せっきりではなく、住民がしっかり自分たちの住む町は自分たちで決めるという意識が高まったのである。
6人の高齢独身女性の要望
もちろん、高台移転はすんなり決まったわけではない。北上町の災害公営住宅入居希望者は単身の高齢者がかなり多く、孤立や孤独死の心配も高かった。逆に、広い庭や、3台や4台も停められる駐車場は必要ないという。熟慮を重ねた末、「長屋型の見守り重視タイプ」の公営住宅を作ることになったという。なかには、仮設住宅でお互いに助け合った6人の高齢独身女性が、「お互いに面倒をみあうので一緒に入居させて」とグループ入居の要望を持ち込むケースもあったという。