十年越しで手にした高校の卒業証書
私は今年の2月末に28歳で通信制高校を卒業しました。
卒業式には両親も来てくれており、私よりも二人の方が喜んでくれている様に見えました。その姿が見られただけでも私は高校に通い直して良かったと思えました。
私が通信制高校に入学しようと思ったのは今から4年前。全日制高校を1ヶ月で中退した私はアルバイトの面接を受けても不採用が続き、気付けば二十代後半に差し掛かっていました。
四捨五入したら、アラサーだと焦り出した私は突如、地元の自立支援の所へ行き、相談しました。
すると、そこに来ている女性二人が二十代で高校卒業した事や現在通っている事を聞いて、私は高校を中退して以来、初めて刺激を受けました。自分よりも年下の人が頑張っているのを聞いているだけで、私は一体何をしていたのだろう?と不安になりました。
それからと言うもの、自立支援の職員の人の力を借り、私は両親を連れて高校の説明会に参加しました。
願書を書いて、面接の練習をしてから挑んだ入試は十年振りだったので、緊張感が半端なかったです。それでも何とかやり終えて、数日後。自宅に合格の通知が届き、無事に私は26歳になる歳で高校に入学しました。
高校に入学してからも学校に慣れるまでは大変でしたが、私の通っている通信制高校には様々な事情の人が通っていました。年配の人や子供の居る人も多かったです。私はその人達と授業を受けていく中で、人間はいつからでも学ぶ事が出来るんだ、いつからでも青春を味わえるんだと感じました。実際に先生の話を真剣に聞いていたり、真面目に授業に取り組んでいる人は年配の人達が多かったです。私はその人達と授業を受ける度に勇気を貰っていた事は確かです。
十年振りに通い始めた高校は年齢もバラバラで、それぞれの想いも違うけども皆、卒業したいと言う気持ちは一緒だったと思います。
最初は高校卒業資格のが欲しいがために通っていたが徐々に様々な人間模様を見る中で、私は勉強以外の何かを学んだ気がしました。それは、この高校を選んで、この高校に入学して通ったからこそ分かった気持ちや感情。何歳からでも生きている限り、人は学ぶ事が出来る。人生に遅すぎるはない。それを教えてくれたのは、この高校だったと思います。
卒業式の日に担任の先生から、卒業証書を受け取った時には何とも言えない感情が込み上げてきました。私にとって、十年越しの卒業証書でした。
いつか私が歳を取り、誰かにこの学校の事を話す機会があるとすれば、私は迷わず胸を張って高校時代の話をするでしょう。私の人生の中で、この高校での出来事が今後、何かの役に立つ事を信じ、この高校に入学して
卒業した事を胸に少しでも前に進めて行ければ、私は幸せです。
〔イモゾンさん(29歳)/大阪府〕
一度きりの人生、やりたいことをやろうと決めた
『もっと人生を楽しめば良かった』『もっと、やりたい事をすれば良かった』、こういう思いを持って年を重ねる方が多いと聞きます。その思いを引き摺り、後悔を残して亡くなることは、とても不憫でならないと感じてしまいます。
小学生の頃、『将来何になりたい?』という質問のやり取りを、いつも腑に落ちず聞いていた私。『プロ野球選手』『パイロット』『医者』『警察官』『教師』と大半が答えるからです。何故、デパートの店員や車を作る人、建物を建てる人がいるのに答えにないんだろう?誰が成るんだろう?と素朴な疑問でした。
当時は、義務教育を終えると就職を意識した進路が求められ、先々で篩(ふるい)に掛けられ選択肢をなくす現実がある等、想像もつきませんでした。 だからでしょうか、私は呑気者に見られていたようです。近所から『君は全く勉強しないみたいね』と陰口を叩かれていました。何故なら、小学高学年になっても、夏休みに友達を遊びに誘うからでした。
友達の親に『息子はこれから塾なの』と断られ、挙句の果てに『偉くなるために良い大学に入って、良い会社に入って、沢山お金貰うために、今勉強しなきゃだめよ。』と言われる始末。その言葉は、心に恐れとなして突き刺さりました。その度に清らかな気持ちと期待で描いた夢が、脆くも崩れていくようで、悲しい感覚に陥ったことを覚えています。
親の意見や世間の風潮は夢を二の次にします。無難に大学から就職活動のレールに乗り、サラリーマンに落ち着いた人が多いことを後に知りました。残念ながら私もその内のひとり。幼い頃の夢の欠片もなく、高校時代は無我夢中に大学進学を目指しました。
当時はそのプロセスこそ、正しくて立派だと満足し、腑に落ちなかった疑問の答えに苦笑いをしました。 実は小学生の卒業アルバムに私は、『歌手になりたい』と書き残しています。が実際は建設会社に就職し、営業マンでした。言葉を発し伝える事は同じでも、メロディは無く感情表現も要りません。現実のしがらみの狭間をもがく息苦しい毎日でした。
運にも恵まれ役員という地位に就けたものの・・振り返って、全てを客観的に見た時にふと感じました。 『俺は今の自分を守る為に生きてきたんだろうか?』『俺のやりたい事ってこれだったのか?』と。暫く自問自答が続きました。すると、考える喜びと共に、気付かせてくれたタイミングのことがやけに気になりました。密かに守ってきた種火で恐る恐る火を熾こしてみたら、その灯火は神々しく輝いているのです。五十四歳の時でした。自分の夢を叶える歩みを決意し、役員の定年を早期繰り上げてリタイアしました。
周囲に『お前はバカか!』と散々言われましたが、やりたい事もやらずに人生の終りを迎えることこそ勿体ない・損であると確信したのです。 脱サラを機に手探りでカラオケ教室と歌手養成の芸能事務所を設立。専属の講師を雇い、少しずつですが、周囲から評価を頂けるまでに成長しております。
医学的に証明されたボケ防止効果の影響もあり、習いに来られる多くは私よりも人生の先輩方。皆様が活き活きと歌っておられます。昼間練習をし、夜はスナック等で仲間達に披露する。生き甲斐と楽しみだそうです。そのような姿に刺激を受けました。やりたいことを始めるのに、年齢制限がないことを肌で感じます。幼い頃に抱いた『歌』と関わる人生の為に、私も生徒の一人として、日々真剣に学んでいます。楽しく充実した喜びの時を得ました。
一度きりの人生。遠回りしたかもしれないけれど、歩むべき道の選択に間違いはなかったと自負しています。今この一瞬一刻に感謝。そして、この先の学びにワクワク・ドキドキ・ハラハラしています。
〔西依光ヱ門さん(55歳)/千葉県〕
「いきがい」を探して学びの場へ
いきがい大学熊谷校二年制に入学した。ふるさと伝承科、福祉科、美術工芸科の三学科で100名弱の生徒が集まった。入学直後のガイダンスで一通りの指示説明があり、われわれ年配者も若者に戻って大学生活を夢見ていた。その最後に若い事務局職員が、凄いことを言った。それは「皆さんは老年の時期に入り将来お亡くなりになります。学生生活が軌道に乗り、仲良くなり、親しい仲間も大勢出来るでしょう。その中でなくなると、付き合いで香典を出すと思いますが、長命になると仲間が先にお亡くなりになる度に香典をだし、ご本人がお亡くなりになるときは誰も香典を持ってくる人がいない場合も充分ありうると思います」と言って笑いを取った。おそらく過去の入学の時も同じような冗談を話していると思う。
翌日から授業が始まり、徐々に自己紹介やクラブ活動を通じて仲間が出来出してきた。その交際が楽しいから、先の事務局員の冗談は忘れ、授業やクラブ活動で取り組む業務や役員や交友会長の選挙、学園祭の役員の指名等で忙殺され出した。また、授業で週二回皆に会うのが楽しい。講義も学術専門的なものでないから予習もせずに教室に入れるし、要するに緊張しない。授業内容は地元の武将熊谷次郎直美についての講義、地元大学の正教授の講義、浄水場や農業用水池のフィールドワーク、NASAのロケットの話し、弁護士による老人体操等で変化があり興味津々であった。
また隣に居るはずの人が、今日は居ないと亡くなりでもしたのかと心配になる。そうこうしているうちに一年が経過した。昼飯後の講義中に一名が脳溢血で倒れ救急車を手配したり、AEDの実地使用があった。この時は引退したお医者さんも学生の中にいて適切なアドバイスがあり命を取り留めている。そして二年生になった。そして今度はクラスの一名が亡くなり、退学者もでたりしてクラスが少しずつ欠け始めた。この時、ガイダンスの時の事務局員の冗談を思い出した。
懇親会では、高齢の割に飲み放題の店を選び「俺が一番損をするかもしれない」などと堂々と喋りまくるのが出てくる。その場では笑っているが落ち着くと笑いが止まる。
話題を変えようと誰かが言って別の話題に移る。今度は次期の役員の話しに移る。積極的に手を挙げる人は何人もいない。お恥ずかしいが自分もその一人である。最終的に順番制でしぶしぶ承知するような状態である。その遠慮する理由がパソコンが出来ないからというのが多い。過去に暮らすのレポートを回収した時にはみんなパソコンで作ってあり手書きの人は一人しかいなかったので殆どの学生が出来るはずであるが、パソコンは倅に打っても貰わなければできないと釈明する。
この役員交代の時期が過ぎると、クラスは元の活気を取り戻す。学園祭や研修旅行が入ったり「中山道歩きの募集」があったり、参加状況を見ると。いきがい大学はまさに仲間づくりである。現役時代の今までの仕事人間が一段落して、暇を有効に使おうとボランティア等に精を出し始める。やはり名称は老人大学でなく「いきがい大学」がぴったりだ。
〔神宮博道さん(72歳)/埼玉県〕
再び勉強する気になったきっかけ
社会人として働いて二年以上経過して、ある本に出会った。宮本延春著書「オール1の落ちこぼれ、教師になる。」その内容は、中学時代オール1の宮本さんが物理学を本格的に勉強するために、国立大学名古屋大学合格を目指して猛勉強し、見事合格し卒業後高校教師になったというストーリーだ。読み終わった後、私の心は驚きと感動に包まれた。そして決意した。「私も宮本さんのように勉強で人助けをしたい。」私も学生時代、勉強で思うような結果を残せず悔しい思いをしてきたのでそんな自分なら勉強で悩んでいる人たちの支えになることが出来ると考えた。
その為にまず勉強する内容と、勉強の悩みを抱えた人達を探すことだった。勉強する内容については、勉強が苦手な私でも得意と自負している感じを勉強することに決めました。高校時代に漢字検定準二級まで合格することが出来たので二級合格を目標に決めました。二級は社会人レベルなので、社会的評価されていることも決め手になりました。
次に行ったのが勉強で悩んでいる人達を探すことでした。これは色々調べた結果、埼玉県内では勉強についていけない中学生に勉強を教えるボランティア団体が存在していて、社会人でも参加できることが分かりました。
こうして以上の二点をクリアできたので、本格的に漢検二級の勉強を始めました。まず書店に行き何冊かの本を見比べて、二冊の問題集に絞りました。勉強のやり方としては、最初に答えを見て赤シートで隠して覚えたか確認して、、数日たったら赤シートで隠して忘れていないか問題を解きます。これの繰り返しでした。一番覚えにくかったのが熟語の構成でしたが、問題集とセットにはいふされていた暗記ブックに熟語の構成の種類がまとめてあったので覚えやすくて助かりました。そして、試験まで一か月と近づいた日に過去問題集に取り組みました。制限時間内に問題は解けましたが、合格点ギリギリの点数が多かったでした。それでも、間違えた問題は問題集に戻って確認したり、再び数日たってから問題に取り組みました。そして一か月後、ついに試験当日をむかえました。出題された問題は勉強してきたものばかりでした。後は、細かいトメやハネに注意して解きました。そして試験から一か月後、結果が来ました。合格でした。しかも、二百点満点中百八十九点という高得点でした。努力が実って嬉しかったです。
でも、漢検に合格しても勉強することは、やめません。ほかの資格試験にも挑戦して、勉強を続けるつもりです。宮本さんが大切にしている言葉、「人間は死ぬまで勉強。」私もこの言葉通り勉強を続けて一人でも多くの子供達に夢や希望を与えたいと思ってます。
〔ペンネーム:平井貴大さん/埼玉県〕
(一部の作文に、編集室がタイトルやルビをつけ、文字の訂正などをしています)
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