1983年の正月、電子部品メーカーに勤めていた私は、台湾高雄工場への赴任を命ぜられた。50歳という年齢から、家族を残しての単身赴任となった。当時の台湾は国民党の支配下にあり、戒厳令下の重苦しい雰囲気だったことを覚えている。海外駐在員の生活はどの勤務地でも変わらないと思うが、休日は駐在員仲間とゴルフの後サロンでのカラオケというパターンが決まりだった。私もそうした事情を聞かされていて、ゴルフバッグを抱えての赴任だったが、二度ほどゴルフ練習場に通っただけで、ゴルフは自分には合わないと諦めた。せっかく海外駐在という貴重な体験の機会を得ながら、日本人同士の付き合いに終わるのでは、勿体ないという思いだった。
駐在員寮の小母さんに頼んで、中国語の先生を探してもらったところ、近所に日本語を習いたい女子高生がいるから、中国語と日本語を教えあったらと紹介されたのが、日本の短期大学への留学を目指していた高校二年の林さんだった。週に二回、夕食後に寮に来てもらい、台湾の小中学生の教科書を主体に、テープに録音してもらっては勉強した。工場では日本語世代の女性の通訳が付いていたのだが、出来るだけ現地の人と直接話すことを心掛けたので、間もなく日常会話はなんとか通じるようになった。ただ中国語で文章を書くことを目指していたので、林さんや通訳の張さんに日本文の中国語訳を推敲してもらった。ただ50歳からの語学というのは、聴く力がなかなか付かないもので、やはり若い時にもっとやるべきだったというのが反省である。
台湾駐在は6年半で終わったが、帰国後に海外貿易開発協会に登録したところ、台湾の中堅企業への技術指導の依頼があり1年半従事、その後は中国への進出を検討していた中堅商社に顧問として席を与えられ、古稀近くまで中国語を生かすことができた。 語学を学ぶというのは、予想以上の時間を費やすもので、しかも中途半端では役に立たない。大学時代に学んだのはドイツ語だったが、卒業後にドイツ語を使う機会が全くなかったから、殆ど無意味な学習時間だったと思う。使う機会の多かった英語にもっと時間を割くべきだったかもしれない。
台湾駐在の日から三十余年、必要とされる外国語事情も大きく変わった。50代と40代の息子達は気軽にヨーロッパや中国に仕事で行く。英語を使えば仕事には差し支えないのだろうが、現地の言葉が出来ると出来ないとでは意思の疎通に大きな差が出るのではと懸念している。まして実用だけならAIの発達で一定水準の語学力が誰でも持てる時代がすぐそこに来ている。これからは大きな仕事をするには、他に抜きんでた語学力が求められるのだろうと息子達には話している。
50歳からの中国語
12月の一次審査通過作文/「学びと私」作文コンテスト
雀部信夫さん(84歳)/東京都
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雀部信夫さん(84歳)/東京都