よくばり語学学習
私は現在NHKのEテレの語学番組で自学自習をしています。
外国語との出会いは中学時代の英語でした。と言っても、英語に親しんだのは学校ではなく、近所の塾でした。今日的にはいかがかという気もしますが、講師は地元の高校の英語教師でした。是非はともかく教え方は抜群でした。語学に限りませんが、良き師との出会いというのはつくづく大切です。
大学時代には、ドイツ語とフランス語を履修しました。単位取得を目当てにした履修で、体育会の活動と並行しての予習はしんどかったけれど、苦痛に感じませんでした。
卒業旅行で欧州に行った時、最初に訪れたイタリアではイタリア語の学習経験がなかったにもかかわらず会話には不自由しませんでした。次の訪問国のスイス、ドイツでも難なコミュニケーション出来ました。ところが次に訪れたフランスではフランス語はおろか英語さえもまったく通じませんでした。当時(80年代前半)のフランスでは英語を話す人は嫌われましたし、東洋人(当時は東洋人≒日本人でした)はやや見下されていたように感じたものです。
その後、仕事と生活に忙殺されていたのですが、年齢も50代となりやや余裕が出始めた頃、NHKのEテレに語学番組があるのを知りました。最初は、学生時代に履修しなかったスペイン語からスタートしました。とても新鮮でした。程なく、イタリア語も視聴するようになりました。
テキストも購入せず、ただ視聴しているだけですから歩みはのろいのですが、それでも楽しい、と感じるに十分でした。追ってドイツ語とフランス語の視聴に繋がって行くのにそう時間は必要ありませんでした。
すると内から「他の言語は学ばなくていいのか?」と聞こえて来るようになりました。順次、中国語、ハングル、ロシア語、アラビア語と加わり、週に8カ国語を録画して視聴するようになりました。欲張り過ぎて却って習得を遅らせているのではと自省する事もしばしばです。その上「ながら学習」ですので1~2年が過ぎても、まったく語学力が上がらない事に焦りを感じるようにもなりました。
そこで手掛けたのがノートを取ると言う事です。ハングルやアラビア語は馴染みがなかったのでノートを取るにも、一字一句、写経のように書き写すのですから大変な労力が必要でした。もっと実用的なヒアリングとスピーキングを磨くべきではと感じる事もままあります。それでも、最近は書き取りも当初と比べて幾分早くなったと思いますし、読めるようにもなりました。「石の上にも三年」ですね。
ノートを取りながら学習していると、何だかんだで週に8時間くらい費やします。時々寝落ちしたりして「学生時代にもこんなに熱心に勉強しなかったなあ」なんて苦笑したりします。この話をすると一番訊ねられるのが「何のために?」という質問です。この先、彼の地で勤務する可能性は殆どありませんから自己満足と言ってしまえばそれまでです。何かを身に付けるためには一つ一つ(この場合は一ヶ国語ずつ)確実に、というのが常道だと分かってはいますが、人生の残り時間と言うものを計算した時、それだと間に合わない、と考えたのです。同様の理由で、週末は、合気道と空手の両方に汗を流しています。こちらも50を過ぎて始め、合気道は今年初段を允可されました。空手の方も現在一級ですので、そう遠くない将来、黒帯が巻けるかもしれません。
新しい何かが身に付くのは幾つになっても楽しいものです。いつの日か日本語と英語を併せて10カ国語を解する人間になれるよう精進を続けていこうと考えています。
坂の上の雲さん(56歳)/埼玉県
英語界のドンキホーテ
英語との出会いは57年前の中学1年でした。先生はアメリカ帰りで、授業中に話してくれるアメリカの話は大変興味深いものでした。特に、和式トイレしか知らない私には西洋便座の話には驚きました。先生は使いかたが分からずトイレの中で四苦八苦したそうです。また先生のアメリカ訛りのRやLの音は日本語にはない不思議な魅力を感じました。そんな先生の影響で将来は英語の先生になりたいと思いました。
大学で英語を専攻し、高校の教員になりました。ある時生徒から「先生は英検1級を持っているの?」と尋ねられました。持っていないと答えると「なあんだ、持っていないのか」とがっかりした様子でした。これには私のプライドが傷つけられました。また、この時初めて英検1級と通訳ガイド免許を有する人こそが真の英語の実力者だと知りました。そこで猛然と英検1級を目指しました。大学受験問題を片端からやりました。夜には会話学校にも通いました。数年後満を持して受験しました。ところが1次で不合格。そして捲土重来、翌年再受験。今度は1次の筆記には合格しましたが、2次のスピーチで不合格。1次に合格すると2次試験のみを2回受験する資格ができます。そこで再度奮起。1回目で合格。しかも、なんと優良賞をいただきました。「英検持っていないのか、」と尋ねた生徒は既にいませんでしたが、リベンジできました!
次は通訳ガイド試験です。運輸省が実施していた国家試験です。3次まであり、当時は合格率3%と司法試験並みの難関でした。英語だけでなく日本の文化・歴史・政治など幅広い知識が必要でした。この試験は年1回しかありません。合格まで3年かかりました。翻訳学校や通訳養成所にも通いました。昼間は教師、夜は生徒でした。夜の授業は眠くてたまりませんでしたが、生徒に馬鹿にされないような英語力をつけようと努力しました。この後はTOEFLやTOEICなど英語の資格試験のための勉強を続けました。こうした勉強を続けたためか、学校の授業で扱う教材が実に易しく思えるようになりました。さらに、英語への理解を深めることによってより良い授業が行えるようになりました。このことは資格試験を目標とした勉強が生み出した副産物でした。
定年退職した時、「さてこれから何をしようか」と考えました。それまでの人生を振り返ってみました。私は人生の多くを英語学習に費やしてきました。そして自分は一体英語で何をしたかったのだろうと考えました。生徒に英語力を自慢するため?より良い授業をするため?どちらも違う気がしました。そして単純な結論に到達しました。心底望んでいたのは英語の達人になることでした。それも証明書付の達人になることでした。通訳士や翻訳家としてアルバイト的には働いていましたが、それが実力者としての「お墨付き」ではありません。そこで英検1級で文部大臣賞を受賞することに目標を定めました。これなら立派な「証明書」です。しかし、これも壮大な目標です。既に5年が過ぎていて険しい道のりです。長文問題をやってもすぐに頭が疲れます。思うように瞬時の翻訳ができなくなりました。新しい熟語を覚えてもすぐに忘れます。若い頃の集中力や瞬発力が消えていました。「こんな語彙知らない」と思って辞書で調べると既に何回も調べているのです。こういう時は愕然とします。最大の問題は英語力や瞬発力というよりも、気力が衰えたことです。それでも老いに抗っている最中です。既に70歳、砂時計の砂が少なくなっています。巨人と間違えて水車に突進していくドンキホーテのような自分が滑稽に思えることもありますが、残された人生の最後の目標に向かって学び直しの毎日です。
池野良男さん(70歳)/東京都
英語で広がった視野
社会人になってから英語が好きになった私。学生時代の文法の悪夢から解き放たれ、好きなものを好きなように読めばよかったから、手当たり次第に読み漁った。ハリーポッターだって、指輪物語だって原書で堪能した。
話すのは、当たって砕けろの体当たり英会話。大好きなベーグルの食べ歩きのために、真冬のニューヨークのひとり旅を2回敢行した。1週間の滞在時には毎朝毎晩同じベーグルやさんに通い、トーストウィズバターを注文し続けた。ベーグルはサンドイッチにすると5ドルを超えるが、これなら1ドル以下でいける。横半分にカットし、バターをたっぷりはさんでアルミホイルで包んだら、トースターへ。数分待てば、バターしみしみの美味しいベーグルにかじりつけた。毎回いちばん安いこのメニューを注文し続ける私をかわいそうに思ったのだろう、ある日、店員さんがクリームチーズをたっぷり挟んだものを出してくれた。正直、私はクリームチーズが苦手だけれども、その時ばかりは残さず頂いた。
グッゲンハイム美術館に開館1時間前に到着したため、寒風吹きすさぶ中、立っていた。あまりにも寒くて、思い切って隣に立っていた青年に話しかけた。よほど私が幼く見えたのか、たったひとりでニューヨークまでやってきたことに驚き、開館までおしゃべりに付き合ってくれた。その方はアーティストで、教えてもらったホームページを見たら、素敵な抽象的な水彩画が並んでいた。最近、偶然見つけたフェイスブックの写真では、かなりいいおじさんになっていた。年月の経過を実感する。
人生をかえたくて、35歳のときに貯金をはたいてバンクーバーに半年ホームステイをした。通った現地の語学学校には韓国人が半分以上在籍していた。スピーチの授業の時に、韓国には兵役があることを初めて知った。同じアジア、しかもお隣の国なのに、ほとんど何も知らないことを恥ずかしく思った。彼は入隊1年目、理不尽に殴られ続けたことに深く傷つき、自分が上級兵になったときには絶対に殴らないと心に誓い、それを守りとおしたそうだ。20歳といえば、私は大学で、のほほんとすごしていた時期。あまりにも違う青春時代にがくぜんとした。 今は、テレビの語学番組やニュースで英語に触れるだけだが、話す機会を獲得したい。そして、3年後には東京オリンピック・パラリンピックが開催される。そうすれば私の住む横浜にだって、今まで以上に外国人が訪れるに違いない。その方たちに滞在を楽しんでもらえるようなおもてなしがしたい。地元の知識を増やして英語で案内できるようになりたい。
空野ももさん(46歳)/神奈川県
英語を私から奪わないで
渡航経験も学歴も少なく、英語を堪能に話せるとよく聞かれるのが、「どうして、そんなに英会話ができるようになったの」か。私自身もよく分かっていないが、大抵は「そう強く望んだから」と答える。
私の家族は純日本人で、英語話者も専門的に英語教育を受けた者もいなかった。むしろ現代の英語教育重視には便乗しなかった方だ。だから、幼少期の私のまわりに英語の教材と呼べるものはほとんどなかった。せいぜい月に一度だけ小学校で行われた英会話教室のみ。それだけで英語学習に興味を抱く生徒はごくわずかだっただろう。その頃はまだ英語が指導教科でなかったから。私もその一人で、英語なんて将来それほど役に立たないと軽蔑していた。きっとそのまま成長していたら、皮肉にも、受験のためだけに英語を頑張る「ジャパニーズ・イングリッシュ・スピーカー」になっていただろう。
そんな私も、映画だけはアメリカ製を好んで観ていた。ある時、年上の姉が「ハイスクールミュージカル」というティーン向けのミュージカル映画を借りてきて、家族そろって観た。その映画は吹替版でも歌のシーンだけは英語と日本語字幕に切り換わるのだが、何とも言い表せない感動に包まれたのだ。後のち日本語版で確認しても、あの時ほどの感動は沸き起こらなかった。そこで、やはり英語には独特の魅力があると気づいたのだ。私にとって、英語は最も感情的に訴えかける言語だと。あの頃は断言できなかったが、今思えば、私は、言語とは、想いを伝えたいと思って初めて習得できるものだと考えていた。
私はすぐにでも英語を学習したいと思った。しかし当時の私は知識もなく、経済的にも厳しかったため、英会話スクールに通うことはできなかった。それでも私は諦めきれず、独学で学ぶことを決意した。英語教材を購入するお金もないほどのスタートで、正直、私は困惑していた。
まずは先ほどの映画のセリフから覚えようと、何度も繰り返し再生した。元々、歌謡曲が好きな私にとって、ミュージカル映画は最適だった。映画を観ていない間も音楽が脳内でループしていたため、一日何時間と数えずとも自然に勉強することができた。
ただ、英文法の勉強だけは進められなかった。やっと始めたのは中学入学後、アルファベットからの英語の授業だった。幸いにも、その英語教員との相性が良く、三年間で日常会話程度の英文法を習得できた。
高校進学後、英語を専門的に扱おうと考えた時期もあったが、結局は違う進路に着いた。しかし、英語学習に力を入れた時期が無駄だったとは思わない。一つの物事に継続的に取り組むという、人生において得がたい経験ができたからだ。一つのことに躊躇わず集中できる環境があるのは、学生時代ならではだと私は思う。それが将来に直接的に役立とうと、そうでなかろうと、私は英語学習に費やせたことを誇りに思っている。そして、そんな出会いを与えてくれた「語学」に、私は心から感謝している。
アンQさん(23歳)/東京都
中国語を学んで40年
中国語を学んで40年になります。
英語が苦手でずっと外国語は自分には向いていないと思っていたんですが、たまたま聴いたラジオ講座の中国語の美しい響きに魅せられました。
大学の第三外国語(選択科目)の中国語会話の授業、一年間やったことと言えばほとんど大声での発音練習でした。結果的にはそれはよかったと思います。今でも発音だけは中国の人にほめられます。アナウンサーみたいと言われたことも……
卒業してからも中国語だけはやめないで社会教育会館での自主学習グループに参加したり、語学学校に通ったりして続けてきました。ラジオとテレビの中国語講座も欠かさず視聴しています。
初めて中国人と本格的に中国語で話したのは10年くらい経って夜間のビル清掃のアルバイトしていたときのことです。突然来日したばかりの日本語学校に通う学生たちと作業することになりました。
しかし彼らは広東省広州市出身で、聞こえてくるのは広東語です。でもベテランのおばさんの指示がなかなか伝わらない様子だったので、思いきって中国語(共通語)で話しかけてみました。すると相手も笑顔になって広東語訛りの共通語で話してくれました。
それから数か月の間、彼らと一緒に仕事をしたことで中国語の会話力は本当に飛躍的に向上したと思います。
初めて中国に行ったのは香港が中国に返還された1997年8月でした。ある学術会議のツアーに参加しました。開会式には人民大会堂にも入って江沢民主席のスピーチも聴きました。でも英語が苦手ですので会議にはほとんど出席しませんでした。タクシーで北京市内を回り、運転手とおしゃべりするのが実に楽しかったです。
21世紀に入って間もなくのころ、中国語の小説を翻訳するのに一時ハマりました。中国語のショートショートやらSF小説やらを読んで、これをぜひ中国語を学んだことのない日本の読者にも読んでもらいたいと、駒込の図書館に通って訳しました。駒込図書館には当時、上下2冊の最大の日中辞典があったからです。十数編訳したSF小説を自費出版を手がける出版社に見ていただいたところ、ぜひ出版したいが訳者にも応分の費用の分担をお願いしたいと言われ、経済的な理由から出版は実現しませんでした。
2006年から07年には日本語の先生として中国東北部の学校で教壇に立たせていただきました。こんなことなら大学で教員免許取っておくべきだったのかなあ。案の定短期間で日本に舞い戻ってきましたが。後悔先に立たず。
そう言えば最初に行った延辺の学校の宿舎の隣人がロシア人の先生で、日本語はもちろん英語も中国語も通じなかったのにも困りました。到着して一週間くらい7階の部屋の水道から水が出なくて隣の2人のロシア人のおばさんからもらい水していたんですが、言葉が通じなくて苦労しました。日本にいるときにちょっとだけNHKロシア語会話の放送を見ていて、挨拶くらいは通じましたけどね。日本からわざわざロシア語のテキストを送ってもらったりしましたけど、おじさんにはあの難解なロシア語は無理でした。中国人の先生に中国語で通訳してもらったこともあります。
中国語を学んだおかげで思いがけない経験をいろいろさせていただきました。中国語を勉強してからの歳月が勉強する前のもう2倍になりました。中国語はもう人生のパートナーみたいなものです。ちなみに実生活のパートナーも中国人です。
佐々木望月門さん(57歳)/東京都
スペイン語を、学ぶ
2016年6月。ひょんなことからパナマ人達総勢11名と同じ部屋の下、3ヵ月程生活を共にすることとなった。
なぜパナマ人と暮らすことになったのか、どういう繋がりなのか、詳しい話をすると今月のテーマである「語学を学んで」が「パナマ人と暮らして」になってしまう恐れがある為割愛させていただくが、今まで生きてきた中で一番刺激的なひと夏の3ヵ月間だった。
パナマの公用語はスペイン語だ。皆さんもアミーゴ(友達の意味)ぐらいはなんとなく聞いたことがあるだろうか。ちなみにこの時の私の語学力は英語の義務教育のみで、なんとか大学の必須英語を単位を落とさず卒業できたというレベルである。スペイン語の会話を聞くのも人生初体験であった。
まず最初の1ヵ月でとにかく使いに使った言葉は、「オラ!」と「ムイビエン」である。
「オラ!」は日本語で書いてしまうとどこかの怖いお兄さんの発した言葉のようだが、スペイン語ではいつでもどこでもどんな時でも使える挨拶である。「ムイビエン」の方は聞いたことのない人もおられると思うが、一言で言うと「いい感じだよ!」ということである。「元気?」と聞かれた際にも「ムイビエン」と返答できるし、ご飯が美味しい時にも「ムイビエン!」で通じる。何を聞かれているか分からないけれどとにかく何か答えないといけない雰囲気の時にも「ムイビエン」で乗り切れる。こんなに有り難い言葉はない。日本にいながら日本語が通じない中で、苦難の1ヵ月を乗り越えられたのは「オラ!」と「ムイビエン」というポジティブな単語のおかげである。
2ヵ月に入るとボディランゲージでなんとなく何を言っているのかが分かるようになった。例えば「暑い」「寒い」「眠い」などだ 海外の人は日本人よりも感情をはっきりと言葉にするイメージがあるが、それは当たっていると思う。面白いことに、理解できる単語やなんとなくこう言っているんだろうなということが分かってくると返答をしたくなる。
しかしいざ返答をしようにもスペイン語が全くでてこない。悲しいかなこれが現実である。
3ヵ月目のある日、つわりに苦しんでいるパナマ人の妊婦さんの背中をさすってあげていた日があった。そんな彼女を見てスペイン語で何か言ってあげたいのに一つの単語すら出てこない。彼女は私に「アリガトー」と何度も言ってくれたのに、である。言葉が届く安心感と言葉が届かない歯がゆさを身を以って教えてくれたのは、この子だ。
現在私は、スペイン語を習っている。はっきり言って3歩進んで3歩下がるような歩みではあるが、少しずつ覚えていく単語や文法の意味が理解できると嬉しくなる。勉強して改めて思うのは、スペイン語はロマンのある言語だということである。あの日パナマの妊婦さんに言えなかったスペイン語を、弟のお嫁さんになる予定であるコロンビア人の彼女に言えるよう、日々努力していきたい。ちなみにコロンビアの公用語は、スペイン語である。
たこさん(33歳)/大阪府
(一部の作文で編集室が文字の修正をしています)
過去の「学びと私」コンテストの金賞作品はこちらから
11月(第4回)の金賞3本が決定しました
10月(第3回)の金賞3本が決定しました
9月(第2回)の金賞3本が決定しました
8月(第1回)の金賞3本が決定しました