風船爆弾、怪力光線、偽札。帝国陸軍の諜報活動を学ぶ

山田朗 明治大学教授:陸軍登戸研究所の誕生から80年@明治大学リバティアカデミー

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登戸研究所航空写真 1947(昭和22)年米軍撮影(国土地理院所蔵)

登戸研究所航空写真 1947(昭和22)年米軍撮影(国土地理院所蔵)

怪力電波に執着し、レーダーの開発が遅れた日本

第1科では、電波で人体を攻撃する怪力電波や、超音波で攻撃するレーダー兵器などが開発・研究されていた。ちなみに、怪力電波は「くわいりき(怪力)」から「く号兵器」、超短波レーダーは「ち号兵器」と呼ばれていた。

「当時、レーダー兵器の研究が一番進んでいたのはイギリスでした。しかしイギリスの対空レーダーの大元の技術は、日本で発明された八木アンテナのものだったのです。しかし当時の陸軍は「く号兵器」に力を注ぎ、レーダーの開発は遅れました。事前に察知するよりも、来たものを落とすほうに注力したともいえます」

風船爆弾は扱いが難しい兵器だった

また、第1科では、アメリカ本土の攻撃を目指した「風船爆弾」の開発も行っていた。その名称は「ふ号兵器」である。直径10mほどの和紙で作られた風船の接着剤に選ばれたのは、こんにゃくだった。

「和紙をこんにゃく糊で張り合わせると、雨に濡れても溶けず、ゴムよりも気密性が高く軽い風船が作れたそうです。一つにつき3千枚の手漉き和紙が使用されたといいますから、まさに手仕事での兵器製造です。高度が下がってくると、ゴンドラに積んでいる砂袋を自動的に落として高度を維持する装置を備え、アメリカ西海岸までの到達時間はおよそ50~60時間でした」

この風船爆弾、登戸研究所の第2科で開発されたウィルスを載せてアメリカを攻撃するというプランもあったが、実際には爆弾や焼夷弾を搭載して発射されたという。その「戦果」はオレゴン州での死者6人にとどまったが、アメリカ政府や軍に与えた心理的な効果は、けっして小さくなかったという。

風船爆弾には大きな欠点があった。上空1万メートルに強い偏西風の吹く冬場にしか使えなかったことだ。そのため1月から4月にかけての時期限定兵器だった。しかしその季節は降雪がある。本当は夏場に落として山林火災を起こしたいのに、冬場にはあまり戦果があがらない。そこで、夏でも偏西風が吹く1万5000メートルまであげられる改良型も試作された。しかしそのためには直径15mまで大きくしなければならず、実用化はならなかった。

また、この兵器の困ったところは、本当に届いたかどうかわからないところだと山田先生は言う。1000発くらいが到達したとされるが、アメリカは発表せず、実数はわからないという。

 

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