草加市と都電荒川線の間にある意外なつながり

【Interview】獨協大学エクステンションセンター長 秋本弘章先生

昭和30年頃には一日に約175万人もの利用者があり、日本最大の路面電車として栄えた “都電”。だが、その後は廃線が進み、現在では都電荒川線が残るのみとなっている。しかし、この都電こそが郊外に電気を通すインフラとなったのだという。

  • 公開 :

東京の三ノ輪橋~早稲田間を走る都電荒川線

昭和30年頃には一日に約175万人もの利用者があり、日本最大の路面電車として栄えた “都電”。だが、その後は廃線が進み、現在では都電荒川線が残るのみとなっている。しかし、この都電こそが郊外に電気を通すインフラとなったのだという。

電気の配電とともに始まった都電の歴史

昭和の東京の風景と言われたときに、頭に浮かぶ情景のひとつが街の中を走る路面電車。かつて、東京の重要な交通手段として発達した都電にスポットを当てるのが、獨協大学のエクステンションセンターで開催されている「地域の環境を考える(環境共生研究所提供講座)」を担当する、同大経済学部教授の秋本弘章先生だ。

「獨協大学はもともと都電とは縁の深い大学なんです。じつは獨協大学のある埼玉県草加市付近に最初に電気を通したのは、都電荒川線の前身である王子電気軌道です」

王子電気軌道の敷設工事によって設備などが整えられ、東京郊外には次々と電力が供給されていった。今の草加の地に電気が通ったのは、1915年(大正4年)のこと。

「当時は、電気会社が一般家庭への配電と電車事業を一緒に行っていることが大半でした。まだそのころは電気の需要がなかったため、余剰電気を有効活用すべく、『電気を使うなら電車だろう』ということで、各電気会社は軌道事業(道路に鉄道を敷設する事業)も行うようになったんです」

社会人は「ああ、そうだったんだ!」と

いまでこそ「鉄道といえば電車」というイメージがあるが、当時はまだ電気のモーターの力も弱く、配電システムも不安定だったため、路面上で電車が突然止まってしまうことも多かった。

「当時、物理的エネルギーを生み出すには、蒸気機関のほうが電気よりはるかに強力でした。だから基本的に幹線鉄道は蒸気機関車でした。しかし蒸気機関車に町中を走らせるわけにはいかないので、市電が発達していったんです」

その後、東京の都市の発展とともに市電は発展した。現在の都電荒川線は、第2次世界大戦直前まで王子電車と呼ばれる民間鉄道だったが、戦時統制経済のもと、1942年(昭和17年)東京市に移管された。1943年(昭和18年)には東京市が東京都になり、都電となった。都電は、第2次世界大戦後一時復興したが、高度経済成長期の地下鉄の発展や自家用車の発達により、衰退の一途をたどる結果になる。

このように、地域の歴史に焦点を当てた講座を「地域の環境を考える」として今後も開講していくとのことだが、ぜひ、そうした歴史的知識をもつ社会人の方にこそ受講してほしいという。

「たとえば今回の都電の講座にしても、学部で『都電』と言ってもわかる学生は少ない。実際に乗ったことがある学生となると、数えるくらいです。しかし、昭和の東京で暮らした社会人なら、都電の風景は覚えている。どんな乗り物だったか、どんな音がしたか、いくらくらいの乗車料金で、どんなルートを走っていたか……ということを体験として知っています。

そうした方に、『いま最後の都電として残っている荒川線を最初に運営していた会社は、王子電気軌道という会社で、実は草加市に電気を引いた会社でもある』『当時は、まだ電気があまり一般普及していなかったので、電気が余っていた。だから、電気会社は各家庭への配電と一緒に、電車事業にも乗り出すのが一般的だった』などといった学問の知識で裏付けすることで、とたんに都電が自分たちの生活と、どのように結びついていたのかがわかる。両者がリンクしたその瞬間、『あぁ、そうだったんだ!』と、みなさん本当にうれしそうな顔をされますね」

それが社会人が学ぶ楽しさなんですよ、と楽しそうに秋本先生は語る。

「身近な何気ないものでも、学問のエッセンスを入れていくことで、見える風景が変わってくる。それが “学ぶ” ということなんです」

楽しそうに大人の学びについて語る秋本先生

〔前の記事〕
関東ローム層がトトロに繋がる 大人が学び直す意義

〔あわせて読みたい〕
JALの飛行機整備を間近で見られる人気の工場見学
中年になって目指す人も多い、話題の臨床心理士とは?

〔大学のココイチ〕
現在の獨協大学の中庭に敷かれた石も都電の敷石の再利用だという。

文/藤村はるな

-インタビュー, 教養その他
-, ,

関連記事