99話まで描いたマンガを風呂の焚き付けに
中学時代にずっと描き続け、99話まで描いていた『ハヤブサ純』という少年探偵団マンガを、風呂の焚き付けにしたのもこの頃です。趣味で私的な楽しみとして描くものと、プロとして描くものを明確に分けたいと考えたからです。あっさりと焚き付けにされてしまった『ハヤブサ純』ですが、描いていたのは少年たちの集団の話。ここですでに私の描きたいものの正体が現れていたわけです。
満を持して選んだ投稿先は『COM』でした。西谷先生から促されて『マーガレット』にも投稿しましたが、私が描きたいのはどちらかというと少女漫画ではなく児童漫画でしたから、主に『COM』に投稿していました。手塚・石森の連載に加えて、新人教育に特化したコーナーのある『COM』は私のためにあるような雑誌だと感じていました。
投稿時代であった高校時代は、『COM』と肉筆同人誌(生原稿の回覧誌)『宝島』に毎月投稿することばかりを考えていた幸せな時代だったと思います。
『宝島』には、石森先生に「私は徳島に住んでいて同人仲間がいないので寂しいです」と手紙で相談したことがきっかけで、紹介してもらって作品を送るようになりました。『宝島』の代表の方から「仲間になりますか?」と連絡がきたときは夢のようでした。作品ができあがると、「きちんと届くのだろうか」「できれば『COM』に掲載されて批評されたい」と願うような気持ちで毎回ポストに投函していました。
この頃、石森先生のご自宅に泊めていただいて、原稿を見ていただいたり、出版社まわりをしたりといった、今考えるととても怖れ多いようなことも何度か体験させていただきました。当時は石森先生が読者に向けて「プールができたから遊びにおいでよ」などとメッセージを載せることがあって、実際にバックに水着をしのばせて遊びに行ったりしたものです。
17才「ここのつの友情」
1967年、17才のとき、『COM』に投稿した「ここのつの友情」が新人賞に佳作入選し、デビューを果たします。『マーガレット』に投稿した「リンゴの罪」と『COM』に投稿した「かぎッ子集団」という作品も、ほぼ同時に雑誌に掲載されました。
最初から締め切りを守れない新人であったということは、自伝の『少年の名はジルベール』(小学館刊)にも書いてある通りです。新人ながら複数の出版社の締め切りを抱えてしまい、旅館で缶詰作業をすることになるのですが、そこで出会ったのが、本宮ひろ志軍団です。
石ノ森先生の自宅でたくさんのアシスタントさんが作業をする現場を見たことはありましたが、もっと若い作家の方もアシスタントたちと一緒にマンガを描いている姿をここで初めて目の当たりにしました。のちに私も「トランキライザープロダクト」というプロダクションを設立します。トランキライザーとは精神安定剤の意味で、石ノ森先生の『ミュータント・サブ』の前書きにあった「私はマンガ界のトランキライザーになりたい」という言葉からいただきました。
憧れというものが形を成していく、私はそのただ中にいました。
(続く)
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取材講座データ
マンガはなぜ人を惹きつけるのか | 明治大学リバティアカデミー公開講座(中野校) | 2017年1月14日 |
2017年1月14日取材
文/露木彩 写真/明治大学