大学の良いところは、知りたい何かを、教授という専門家の下につき研究出来ることだ。大学は、その知りたい何かを持って挑む場所だ。私としても、四年間通うのだし卒業論文も書かないといけないのだろうし、ということで、入学前から学びたいことを決めていた。
それは哲学である。その中でも、死生観だ。
結果として大成功だったと思う。哲学や死生観について学ぶことは、もしかすると社会に出て行く上では不要な理論かもしれないが、思想を豊かにし、そして深みのあるものになった。
哲学を学ぶことはとても楽しかった。元々興味がある学問であったから、研究はさほど苦に思えなかった。横で自身の研究の先行きに頭を抱える同級生が哀れに感じられたぐらいである。
もちろん最初はコツが掴めず、教授にアドバイスをもらいながら研究を進めていたが、段々と面白みがわかるようになってきた。出発点となる知りたいことを見つけ、まず先行研究を探す。なかなかピンポイントで該当する研究は少なかったのだが、だからこそ役立つ論文を見つけたときの嬉しさといったらなかった。特にCiNiiという素晴らしいサービスを知ったときは、今後の研究の進め方、そして知り得る情報の量を思って、歓喜に顔が無意識に緩むほどであった。
研究の始めのうちは、これら先行研究や既に出版されたいわゆる解説本を使っており、その程度で手一杯になるほどのキャパシティしかなかったのだが、教授は常々「順調に進めていけば、きっと原著が必要になってくる」と話していた。それが理解できたときの、自身の成長と、更なる学びの充実とが心を満たし、知りたいことを学べるという楽しさが一層可笑しくて堪らなくなったことを覚えている。文献をめくって字を追い、疑問の解決へと繋がるような記述を探し、見つけ、これまで積み重ねた知識と整合し、論を補強することが出来たり知らなかった事実が垣間見えたりしたときの、あのキラリと明るい光が差したような感覚が楽しくてしょうがなかった。よく小さい子供はスポンジのように物事を吸収していくと言うが、そのような感覚に近かった。もちろん最終的な卒業論文を書くこと自体は難しく、構成等に迷って大変な思いをしたものの、インプットしてきた知識を的確に、伝わりやすくアウトプットしていく過程もわくわくしながら行っていた。
本来の学びとはこういうことを言うのだ。確かに義務教育時代から「数学って面白いな」などと感じることもあった。しかし、大学という場で行う「学び」の質が違いすぎた。自分の興味がある分野をとことん調べられる。学生だから研究にどんなに時間を使おうが何も問題ない。社会人になった今だからこそ、あのときそんな時間の使い方や思考の振り分け方が出来たのだと、意欲があれば「学び」があんなにもキラキラと輝いて、高揚感を覚え、充実したことであると肌身で感じた。
特に知りたいこともなく大学生をしている子たちを見ると、とてももったいないように思ってしまう。時間がある学生なのだから、過ごし方は人それぞれであると理解できる。しかし専門家について研究できる素晴らしい時期だから、ぜひ存分に活用してほしいと私は考えるのだ。
実際私は、四年間では足りず少々やり残しを作ってしまったとはいえ、「学び」の楽しさを充分に理解しているし、あの達成感は忘れられない。確実に今の私の基礎を作った「学び」だったと感じている。
(作文の一部に編集室が文字の修正などをしています)