当初は松浦姓ももらえなかったが、16歳で藩主に
松浦静山は宝暦10年(1760)、浅草鳥越の平戸藩上屋敷で生まれた。藩主の嫡子ではなく、8代藩主の子・政(まさし)と女中との間に生まれた子で、当初は松浦姓ももらえず、山代英三郎と呼ばれていた。しかし、静山のほかに男子が生まれず、父も家督を継ぐ前に逝去したため、祖父の跡を継いで藩主となった。
江戸時代、ほとんどの大名は「参勤交代」によって国元と江戸とを一年交代で行き来し、大名の妻子は幕府に対する人質として江戸暮らしをしていた。静山もその例にもれず江戸生まれの江戸育ち。藩主となってようやく、平戸と江戸を往復する生活に入ったという。
平戸について、学生時代から平戸の「松浦史料博物館」に何度も足を運んできた吉村先生は語る。
「平安時代からこのあたりの海域を支配していた“松浦党(まつらとう)”という武士集団がいます。海賊とも水軍ともいわれたりしますが、その一族の中から出てきたのが、平戸藩主となる松浦氏です。平戸島(長崎県平戸市)という島を中心に、北松浦や壱岐などを領地としていました。平戸には16世紀後半にはスペインやポルトガルからカトリックの宣教師が訪れ、1603年にオランダ商館が置かれてからは、プロテスタントのオランダやイギリスの商人との交易の場となりました。しかし1641年にオランダ商館が長崎の出島へ移ったあとは、捕鯨や農業を振興したものの財政が窮乏していきました」
藩財政がひっ迫するなか、安永4年(1775)に祖父の隠居により16歳で藩主となった静山は、精力的に財政改革・藩政改革を推し進める。その土台としたものが、教育による人材育成である。藩校「維新館」を設置し、その教授陣を育成するために藩士を京都の儒学者・皆川淇園(みながわきえん)のもとに遊学させたりもした。また、蘭学を含め多くの洋書を収集した。
コレクションの一つには、オランダ東インド会社の医師として来日したドイツ人ケンペルの『日本誌』も含まれていた。『日本誌』はヨーロッパに日本の支配体制を知らせる書となった。のちに蘭学者・志筑忠雄(しづきただお)が『日本誌』の一部を日本語訳し、『鎖国論』と名づけた。この『鎖国論』こそが「鎖国」という言葉が使われた最初の例となった。