「鳴かぬなら…」「鼠小僧」も、江戸最高のモノカキの人生

大名松浦静山の江戸暮らし ― 随筆・日記にみる松浦家の生活 @日本女子大学公開講座

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松浦壱岐守下屋敷(国立国会図書デジタルコレクション「江戸切絵図」(本所絵図)より

絵図の中の黒丸印の意味するものは?

松浦静山が藩政改革を進めたものの、これだけ洋書を集めたにもかかわらず藩内に静山の学問的知見がそのまま広まったわけではなかったと、吉村先生は言う。ペリーが来航し、軍事技術についての知識や洋書の需要が高まってくるまでには、まだ数十年を経なければならなかった。静山は時代を先取りしすぎたのだ。

また、平戸藩に限らず九州の藩にはやや特殊な事情があった。貿易港である長崎港の警備をしなければならないので、ほかの藩より国もとにいる期間が長いのである。しかし静山は国もとより江戸で暮らすことを希望した。出世して勘定奉行などになることも一時、夢見たようだが叶わず、静山は47歳で隠居する。以後、平戸には帰らず、 82歳で没するまで、本所の下屋敷(しもやしき)で暮らした。隠居した後も、月例の江戸城登城日には上屋敷(かみやしき)に行き、江戸城を遥拝していたという。

吉村先生は江戸の切絵図を見せながら説明する。

「大名の江戸の屋敷には、上屋敷・中屋敷・下屋敷がありました。上屋敷は藩の正式な邸で藩主が居住し、他の大名を応接する場でもありました。中屋敷は側室や将来の藩主などが住む場でした。下屋敷は蔵として藩の産物を置いておく場所として使用されるか、郊外に建てられた場合には別荘として使われることもありました。

絵図の中には大名名に家紋が入っているところ(1ページ目冒頭の絵図参照)と、黒い■や●印のところ(このページの上の絵図参照)があります。家紋が入っているのが上屋敷、■印が中屋敷、●印が下屋敷です。名前が左を向いたり右を向いたり上を向いたり下を向いたりしていますが、これは正門がどっちに向いているのかを示しています。平戸藩主松浦壱岐守(まつらいきのかみ)の上屋敷は、浅草橋周辺にありました(1ページ目の冒頭の絵図を参照)。現在は都立忍ケ丘高校の中にその庭園の一部が残っています。平戸藩の場合、中屋敷はありませんでしたが、下屋敷は隅田川を渡った本所にありました。絵図のなかでグレーに着色されているのは庶民の家です」

吉村先生の解説によれば、大名とその家族が生活する江戸藩邸には、さまざまな身分・立場の人々が出入りし、藩の正式な行事のほかに、「女性と子ども」の生活の場である「奥向(おくむき)」の行事も行われ、贈答や接待が一年中続く交際の場であったという。殿様であると同時に一級の文化人でもあった静山は、この江戸藩邸を舞台に他の大名家の殿様だけでなく、当時北方探検家として知られた最上徳内や近藤重蔵、著名な蘭学者の桂川甫周、杉田玄白らと交流し、知識人のネットワークを形成していく。

次回の記事では、藩邸を舞台にした交流を、『甲子夜話』だけでなく、静山の夫人の日記「蓮乗院日記」も参考に読み解く。

〔続きの記事〕
最先端蘭学医の杉田玄白に首痛診させた大名夫人日記

〔あわせて読みたい〕
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取材講座:「大名松浦静山の江戸暮らし――随筆・日記にみる松浦家の生活」(日本女子大学公開講座)

文・写真/安田清人(三猿舎)

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