忠興は、実の父・幽斎の命が助かったことを聞き、喜ぶどころか激怒したという。なぜ死ななかったのか、と怒り、顔も合わせなかった。
この父と子は、その後もうまくいかなかった。論功行賞で忠興は石高三十九万九千石を得て小倉に行くが、幽斎は京都で暮らし、京都で死んだ。このあたり、黒田官兵衛・長政親子が仲良く福岡の町を作ったのとは正反対であった、と本郷先生はいう。そして忠興は、関ヶ原の戦いはとっくに終わっているのに、細川家に恥をかかせた人間を許さず、どこまでもどこまでも追いかけていく。
どこまでもしつこい忠興
「忠興のすごいところは、もう関ヶ原の戦いは終わってるのに、田辺城を攻めた小野木重次を、追いかけて追いかけて、最後、腹を切らせているところ。ねちっこいでしょう? この調子でガラシャのことも追いつめたんだろうと思うね。
さらに忠興は、忠隆の妻の千代が、ガラシャの死の前に脱出したことも気に入らなかった。千代がうまく脱出できたのは、細川邸の隣が宇喜多邸で、千代のすぐ上の姉が宇喜多秀家の妻の豪姫だったから。だからすぐ逃げられたのだけど、これが細川忠興は気に入らない。なんでおまえの嫁は死ななかったんだ、うちの嫁は死んでるぞってことなのか、嫡男の忠隆は廃嫡されてしまいます。かわって細川家を継いだのは、三番目の息子の忠利。
廃嫡された忠隆は、千代とともに祖父・幽斎を頼って京都に行きますが、その後、千代は実家に戻り、前田家の重臣である村井長次っていう人と再婚してしまう。妻に逃げられた忠隆は、別の女性を娶り、生まれたのが忠春。この人が細川家に仕えて、細川内膳家となります。この家はガラシャのDNAを引き継いでいる。でも細川本家のほうは、途中で一度分家を入れているので、たとえば総理大臣になった細川護煕さんには、ガラシャさんのDNAは引き継がれていません」
一気呵成の90分。つぎつぎと繰り出される忠興のしつこさ、幽斎の狡猾さは辟易としてくるほどだ。しかし聞き終えて思った。ガラシャはたしかに悲劇の女主人公だ。そのガラシャは宣教師に自死の是非を問うたあと、最後に、“彼女は大変満足した”表情を浮かべたという。それは、死してようやく細川父子と別れられるという安堵の笑みでもあったのでは? それが彼女の細川父子に対する最大の復讐であり、結果として多大なる貢献ともなったというのは、歴史の皮肉というべきか。
明智光秀の娘として生まれ、戦国一のキレ男ストーカーに嫁ぎ、狡猾きわまりない教養人の舅に仕えた、戦国一賢い美女。それが細川ガラシャだ。やはり、“歴史の陰に女あり”である。
編集部よりお知らせ:2017年春の本郷和人先生による「日本中世史講義」はすでに満員となりました。早稲田大学エクステンションセンターには「会員先行受付」がありますので、会員登録をおすすめします。お申し込みはこちらから。(外部サイトに接続します)
〔講師の今日イチ〕 忠興もガラシャもキャラが濃いけれど、教養というベールで覆われた幽斎のずる賢さが、みんな持ってった感じです。
〔前の記事〕なぜガラシャはクリスチャンなのに死を選べたか?
取材講座データ | ||
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日本中世史講義 戦国ななめ読み | 早稲田大学エクステンションセンター中野校 | 2016年度秋期 |
2016年11月29日取材
文/まなナビ編集部