「学びと私」コンテスト 11月はこんな作文が集まっています![3]

11月の一次審査通過作文/「学びと私」作文コンテスト

11月30日が締め切りの第4回「学びと私」作文コンテスト。1次審査を通過して第4回金賞候補作になった作文のうち一部をここで紹介します。

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学びと私コンテスト

11月30日が締め切りの第4回「学びと私」作文コンテスト。1次審査を通過して第4回金賞候補作になった作文のうち一部をここで紹介します。

簿記の楽しみ

 目の前に領収書を想像して下さい。もし数字で一万円と金額を記入するなら、あなたはどう書きますか?『10000円』と書いてしまったあなた。間違いではありませんが「簿記を学ぶ機会に恵まれなかったのかな」と私は残念に思います。
学生時代の私は簿記の世界に興味を持ち、公認会計士になろうと必死で勉強していました。四年間、努力しましたが合格することはついに叶わず諦めてしまいました。現在は簿記とは無縁の福祉のしごとに身を置いています。
そんな私に友人から久しぶりに連絡がありました。「経理部に配属された。初めてだからどうしよう」彼は本当に困っていました。私は簿記の勉強をするように勧めました。
簿記とは帳簿記入の略です。簡単にいえば会社の取引内容(お金の流れ、つまりお金をどれだけ使って、その結果どれだけ儲かったか)を帳面に記入する方法を学ぶのが簿記です。彼は簿記の勉強を始め、いろいろな質問を私にするようになりました。即答できない質問もたくさんあり、その都度、私は簿記の本を引っ張り出して調べていました。
きっかけは「質問に答えなければ」と使命感みたいなものでした。ただ、繰り返すうちに気が付けば、新たな発見を楽しんでいる自分がいました。例えば、簿記の本に載っている多くの計算問題は、百万円単位の数値が並んでいます。10,000円、100,000円、1,000,000円と当たり前のように載っています。仮にこれが、10000円、100000円、1000000円と書かれていたらどうでしょう。即座に一万円、十万円、百万円と判別できますか。おそらくゼロの数をひとつひとつ数えるのではないでしょうか。両者の見やすさの違いは、ずばりコンマ(,)があるかないかだけです。けれど、あるとないとではわかりやすさに大きな違いがあると知ったのです。
また、簿記に『貸倒れ』という用語があります。学生の頃は、『売掛金や貸付金などの売上債権が回収できず損失になること』と意味を暗記していました。実はこれも『会社が倒産して、貸していたお金が戻てこなくなったんだな』とすんなり理解していました。経理に携わってなくても、普段の生活のなかで自然と手にするコンビニのレシートやクレジットカードの明細書を見ることで、簿記の本に書かれている内容を学生時代とは異なった視点で捉えていることに気が付いたのです。大人になって学び直すということは、昔の自分が見落としてしまったことを発見し、人生経験を重ねた結果として新しく生まれてきた感受性との融合ではないでしょうか。私は彼に簿記を教えていたのではなく、彼が私に簿記を学ぶ大切さを教えてくれていたのです。
私は今、楽しみながら簿記を学んでいます。しかし、経理の現場では会計ソフトの使用が主流だそうです。手作業で帳簿にいちいち記録する作業は不要になり、パソコンに数値さえ入力すれば自動的に決算書ができてしまいます。便利な機能を持つ会計ソフトがあれば、簿記を学ぶことに意味はないのでしょうか?
そんなことはないと私は考えます。なぜならデーターの意味を理解しないで入力すれば誤った決算書が作成されるリスクがあるからです。入力する領収書をみて『飲食代10000円』とあれば、10000円や100000円と入力するかもしれません。大事なのは書かれている数値の意味を正しく理解できるように簿記を学んでいくことではないでしょうか。

t-99さん(46歳)/東京都

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ただ今、英語史に挑戦中

 もともと英語がとても好きだったという訳ではない。色んなことに興味があって、その中の一つという程度だった。どういう巡りあわせか、予備校で英語を教えることになり、自分なりに受験英語を身につけた。その予備校が生徒減で解散とな り、現在は個別指導塾の講師として毎日英語と数学を教えている。補習塾なので、英語の苦手な生徒が多い。苦手を好きにするのは難しいけれど、テストで点を取るのはそれよりは易しい。英語はそういう対象になった。
 年下の友人に英語が大好きな男がいる。予備校での元同僚でもある。地道に努力を重ね、大学院に通い、今は大学講師をしながら親から受け継いだ田圃を守っている。
 その彼が英語を学び直す機会を与えてくれた。彼の専門が英語史ということで、それを学ぶために原書を読み進めていくことになった。こちらは錆びついた英語のブラシュアップ。彼は自分の専門分野の見直し。両者の思惑が一致して、週に一回の英語研究会が発足した。
 この英語研究会、とてもゆるい。一人住まいの彼の家を訪問し、まずコーヒーを飲みながらの世間話から入る。話題は時事ネタが多いものの、興にまかせて、中世ヨーロッパの政情から第一次世界大戦、パプアニューギニアの少数民族から江戸時代の武士の生活まで、とりとめもなく飛び回る。
 雑談が一段落したところで、さて始めますかとなる。原書と電子辞書を取り出し、こちらは下調べしたノートも開く。彼は専門分野なので、とりたてて準備もない。この差が憎いといえば憎い。彼に言わせると、この研究会は大学院レベルの内容だという。主にこちらが英文を センテンスごとに読み、その意味を言っていく。それを彼が補い追加の知識とあわせて解説してくれる。つまり大学院レベルの授業をマンツーマンで受けているのと同じことになる。
 さて、ここから容赦のない時間が始まる。まずお互いの語彙レベルが違う。こちらはせいぜい見栄を張っても単語は8,000語程度。相手は20,000語以上。大学受験レベルの英語のなんと狭いことかと、毎回冷や汗をかきながら思い知らされる。解釈のミス、単語の浅い理解などはその都度こてんぱんにやられる。さすが大学レベル、受験英語と違い世界がとても広い。
 英語は屈折語と言われる。もともと格に応じた語尾変化が名詞、代名詞、動詞、形容詞にあった。ラテン語と同様である。その屈折のおかげで、語尾をみれば、主語を省略しても、語順が変わっても意味が通じる。時代とともに古英語、中英語、近代英語と他の言語の影響を受けながらシステムを変え、現在のシンプルな英語になった。英語史を学ぶメリットは、例えば、いわゆる三単現のsがどうしてあるのかは、この英語史の知識がなければ説明できない。現在、中学一年生が夏休み明けに学習するこのやっかいなsは、英語史を知らない先生から「そういうものだから覚えろ」式に注入される。この原書講読、毎回、数ページ進んでいく。これはこちらの能力にかれが合わせてくれているからだ。
 われらの英語研究会は、現在、古英語の文法を学んでいる。頭が痛くなるほど文法規則がぐちゃぐちゃしている。それでもゆるく続けていられるのは、同好同志の親愛感がベースにあるからだと思っている。大人同士の勉強会は脱線自由。脱線してもすぐに戻る。いつまでに何をしなくてはいけないという制約もない。お互い健康であれば、双方の事情の許す限り続けられる。
 現在、原書の4分の1まで読み進んでいる。学び直しは当分続いていく。その間に、こちらも語彙力を上げ、対等とはいかないまでも、もう少し実りある会話が出来るようになりたいと思っている。そうなればもっと学びが楽しくなるに違いない。

ニャンチ5号(61歳)/長野県

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古希過ぎて江戸の勉強

 数年前から時代小説を愛読するようになった。どうしてそうなったか、自分でもよく分からない。よく年を取ると、テレビドラマでも時代劇を好むようになると聞く。テレビと小説の違いがあるが、どうやら私もそのクチかもしれない。
 時代小説の魅力は何といっても、武士、浪人、商人、職人、町方や岡っ引きなど多彩な登場人物のキャラクター。そして、剣戟(けんげき)あり、人情あり、恋ありのストーリー展開にある。奇想天外、荒唐無稽もアリで、痛快な話が繰り広げられるのが面白い。
 取り憑かれたように文字通り濫読してきたのだが、最近、ちょっと立ち止まっていた。というのも描かれている世界の時代背景の知識がないので、イマイチ分からない所が出てくる。私が読んでいるのは江戸の世を舞台にしたものだが、 その江戸時代も300年近い歴史をつ。現代のように社会の変動が激しくスピーディではないにしても、確実に時代は変動いていたはずだ。それを知らないと、ストーリーと人物の行動や思いは伝わってこない。つくづく小説を読んできた割には、江戸という時代への無知を思い知らされたのである。
 時代背景を知ったうえで読むのと、知らずに読むのとでは、面白味に格段の差があるに違いない。そう考えた私は、江戸時代の研究、いや勉強を始めた。教室は地元の図書館である。もとより独学だから、手探りである。面白可笑しく、時代 小説に親しんできた老身にはちょっと辛いことだったが、合間に小説を読む楽しさがあるのが救いだった。
 まずは時代の変化を辿りながらの経済政策と貨幣価値を勉強した。とりわけ、江戸庶民の暮らしと物価に関しては、多くの参考資料を閲覧席に運び、日がな読み耽った。江戸庶民のお金にまつわる価値観や食生活には時空を超えて、共感するところが多かった。庶民の子弟の教育に関する文献を読むときは、古希過ぎて勉強している自分を重ね、感慨深いものがあった。
 体系だてて勉強する方法論を持たないので、関心は江戸の法制の整備や行政システム、犯罪の取り締まりなどへと、思いつくままに向いた。そんななか職業図鑑のような分野には、興味を掻き立てられた。それ ぞれの職業の収入、その家計への配分など、堅い資料の多い中ホツと息をつかせてもらった。
 堅い参考資料を相手の勉強は、シンドイことだったが、しだいに時代小説と併読するようになった。すると勉強の成果か、“ああ、だからこうなのか”と、江戸社会の趨勢や登場人物の行動や言葉がストンと腹に落ちるようにもなった。つまり、小説の物語世界を、より深く掬い取れるような気がして、面白味が増すのだった。
 私の勉強は、試験があるわけではないし、論文にまとめようなんてことも考えない。ただ、この年になって子供のように勉強できる。これが流行りも言葉で言えば、私のリア充かな?と、思ったりするのである。

安馬卓夫(72歳)/東京都

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ギフト

ママになって人生の第二幕。これまでは自分本位の生活。しかし今後は息子のために、そう決意をしていた。だが、そんな決意はある出来事をきっかけに脆くも崩れることになる。ある日息子を連れて英語のリトミック教室に行った。もちろん無料だからである。軽快なリズムに手足を思いきり動かす息子。その楽しそうな表情を見ているだけで私の世界はお花畑だった。
私自身英語は苦労した記憶しかない。特に苦手だったのが単語。そもそも一つの単語に複数の意味が存在していることに疑問があった。単語を覚えるために当時はノートが真っ黒になるほど書いた。何回も何回も。しかし次の日には何ひとつ頭に残っておらずショックを受けたものだった。今考えてみるとあれは手の運動をしたに過ぎなかった。中学時代は教科書を丸ごと暗記してしまえば、それなりの結果が出た。しかし高校ではそうはいかなかった。覚える単語の数は一気に増え、これまでと同じ方法が通用しなくなった。逆に年子の妹は英語が大好きだった。好きこそ物の上手なれという言葉通り、好きだから自然と頭に入っていったのだろう。
もちろん私だって努力はした。単語の替え歌を作ったり、時には色とりどりペンで目立たせて単語カードを持ち歩いたりもした。それでも語学の神様は私に降りてきてくれなかった。これから英語を学ぶ息子には同じ思いをさせたくない。それもあって早期の英語教育には少し興味があった。レッスンが終わると先生から保護者向けのあいさつがあった。
「単語が嫌いという方がいますよね。」
先生がこう仰ると私は思わず赤面した。この先生は私の心の中まで見えているのかと。そして続けてこう言った。
「giftという単語がありますね。あれは贈り物と才能という2つの意味があるんです。大事な人からもらった贈り物と神様からもらった贈り物、すなはちこれが才能なんですね。」
私は目からウロコだった。バラバラになっていた多義語の世界が私の中でひとつになった。すごい。そうやって考えたら英語は難しくない。そう確信した。そして一念発起、単語帳を買いに行った。もちろん英語の世界観が詳しく書かれているものを選んだ。今までは薄くて見やすそうな本ばかり選んでいたがこの日は違った。しっかり語源の解説が書かれていて、英語の歴史そのものがわかる本を丁寧に探した。
こうして私は育児の合間を見つけて語学に励むようになった。一度は息子に人生を捧げようと決めた私。それにも関わらず、語学もやりたいという欲張りなこの性格は、ある意味神様からもらったギフトなのかもしれない。

みちゃこさん(33歳)/埼玉県

(一部の作文に、編集室が文字の訂正などをしています)

過去の「学びと私」コンテストの金賞作品はこちらから
10月(第3回)の金賞3本が決定しました
9月(第2回)の金賞3本が決定しました
8月(第1回)の金賞3本が決定しました

 

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