「学びと私」コンテスト 10月はこんな作文が集まっています![1]

10月の一次審査通過作文/「学びと私」作文コンテスト

10月31日が締め切りの第3回「学びと私」作文コンテスト。1次審査を通過して第3回金賞候補作になった作文のうち一部をここで紹介します。

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学びと私コンテスト

10月31日が締め切りの第3回「学びと私」作文コンテスト。1次審査を通過して第3回金賞候補作になった作文のうち一部をここで紹介します。

小さな学習が、私の世界を変えた

私が生涯学習という概念について触れたのは、大学三年生のときだった。就職活動を控えながらも、自分がどんな仕事に就きたいのか明確な答えを持てず、鬱屈としてた気持ちで過ごしていた。そんな不安からか、将来何かの足しになるかと思って色んな資格の勉強をかじっては投げ、かじっては投げを繰り返していた中のひとつに司書の資格があった。
 司書の資格を取得する課程の中に生涯学習について学ぶ機会があった。すべての教育課程を終え、社会人となってからも学習しようとする人たちにとって誰でも利用できる図書館は重要な施設であり、人々の生活をより豊かにする役割がある、といったものだった。
 大学を卒業し、就職して、その会社でずっと働いていくのだ、といった漠然としたイメージに縛られていた私は、多くの国では社会人を経験してから大学へ入ったり、大人が趣味、ビジネススキル問わずスクールに入学したり自己学習を進めることがごく一般的なことであることを知り、捕らわれ続けていた常識という紐が緩み、少し世界が開けたような感じがした。
 しかし、私は自分のやりたいことを見つけきれず、結局は流されるようにバイト先だった会社へ就職した。仕事に慣れ始めた頃、私は生涯学習のことを思い出し、英語を勉強することにした。仕事で英語を使う機会など皆無だったし、私は英語の授業が嫌いだった。取る点数はいつも平均点から少し下ぐらいで、どうせ使う機会などないのだから、別にそれで良いとすら考えていた。そんな私が何故英語に目をつけたのかと聞かれると、なにか特別な理由があったわけではない。大学時代に何となく学んでいた色んな資格と同じように、使えて損はないよな、程度の考えだった。始めは思うように勉強が身につかず、何度も投げ出しそうになったが、少し休憩期間を設けたり、勉強方法を変えたりして、少しずつ英語に対する苦手意識が薄れていった。
 そんな一進一退の日々を過ごしていると、ある一報が母親から届いた。私はまったく関知していなかったのだが、両親が興味本位でアメリカの永住権の抽選に申し込んでいたらしく、その抽選に私が当選したというのだった。まさに青天の霹靂で、今まで海外と一切の縁がなかった私にとって、あまりにも荒唐無稽な話だった。己の手にアメリカ移住の切符が握られていることを実感できないまま、英会話スクールのアメリカ人講師に相談してみると、一生に一度しかないチャンスだからトライしたほうがいい、との答えをもらった。
 異国の地で独りで暮らす自信など全くなかったが、最後まで悩みに悩み抜き、私は挑戦することに決めた。背中を押してくれたのは、生涯学習の教えを受けて始めた少しの英語のスキルだった。もし、英語の勉強を何もしていなかったら、私はアメリカへ行くことはなかったと確信している。
 そしてアメリカへ移住して一年半、まだまだ未熟すぎる英語スキルにくじけそうになることもあるが、新天地での生活は全てが新鮮で、毎日が学習だ。何となく勉強していた小さなスキルで培った自信が、私の世界を大きく変えた。

ラムネさん(26歳)/神奈川県

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私の学び

 40年前、大学受験に失敗し就職活動にも出遅れた私は、約10ヶ月のアルバイトの後に正社員として採用された会社で今も働き続けている。入社後も大学への憧れは止まず、当時岡山には無かった放送大学センター見学のために香川にまで出かけたりもした。
 仕事に慣れ、良縁にも恵まれ、結婚出産とライフイベントを重ね、子どもたちの成長とともに充実した日々を過ごした間でさえも、大学への憧れは頭の片隅に常にあった。
 長男が大学受験の年、45歳になっていた私も一念発起。岡山大学経済学部夜間主コースの受験を決意し入学願書を締め切り間際に提出。念願だった憧れの女子大生となった。
 その年私は、コールセンターのオペレーター約100名の契約社員さんたちの勤務管理やセンター運営を担当していたが、3年間の短期プロジェクトとして立ち上げたセンターの閉鎖は着任時には決定済で、数名のスーパーバイザー以外の雇止めという嫌な役目だった。シングルマザーで仕事を掛け持ちして働く女性もいる中で容赦ない雇止めは、会社の方針に従った仕事とはいえ、不条理極まりない対応と情けなく感じていた。
 終身雇用で家族同様に社員を大事にした日本の企業は、四半世紀で随分様変わりした。経済のグローバル化が進み、失われた10年と言われた低成長期が長引く中で格差は拡大。特にリーマンショック以降は就職氷河期、雇用格差、ブラック企業と厳しい現実を実感。
 社会人特別枠で30代から60代まで私を含めた5名が入学。息子と同い年の現役学生と一緒に学ぶ夜間主コースは、それぞれの課題を持ってフルタイムの仕事と夜間の大学生活を両立。私は仕事が終わりしだい自転車で30分かけて毎日通学し、週末には課題レポートに取り組んだ。現役学生も昼間のアルバイトで学費や生活費を賄いつつ勉学に励むしっかり者が多く、試験期間中は出題範囲などを教えてもらうことも多かった。
 選抜で選ばれたマーケティングのゼミでは、慶応義塾大學の講義でも実践されたケースに従って、実際の企業での課題を解決する施策について討議。社会保障論では、学校で学ぶことのなかった社会保障制度や年金制度について学び、今後のあるべき姿を模索した。夏休みを利用した特別講義では、オープンダイビングの資格を取得し、パラオ共和国への親善学習旅行にも学割価格で参加。のちに天皇皇后両陛下が訪問された際には、当時の様子が懐かしく思い出された。4年後の卒業式には、生涯一度の晴れ姿として袴で出席し、一年遅れで大学生となっていた娘が保護者席から見守ってくれていた。
 男女雇用機会均等法が施行され女性の社会進出が後押しされる中、高卒入社で結婚出産し働き続けた私は、大学への憧れと大卒への学歴コンプレックスを漠然と感じていたが、50歳を目前に大学を卒業してそれらは解消された。
 長男に続き、翌年長女も私立大学へ進学。4人家族の3人が大学生となった我が家の家計は、全て学費に費やされた。国立の夜間大学で職場からの学費補助もあった私は、子どもたちの5分の1以下の出費で卒業できたが、子どもたちは就職後もずっと奨学金の返済に追われている。経済力が無いと進学の夢も描けないのが日本の現状。経済力に応じた授業料無償化や貸与型奨学金の施行は、急いでほしい課題の一つとして注視している。
 学ぶ気さえあれば、いつでもどこでも誰からでも学ぶことはできる。いくつになっても問題意識を持ち、自ら学び続ける姿勢こそが大切だと今も私は考えている。

きくちいくこさん(58歳)/岡山県

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「迷句」脱却「名句」

「あんた文章を書いてごらん、あんたには書くという才能が入っとる」
 なんて占い師が言うものだから、その言葉を信じ、文章を書いたら、書ける、じゃないか、で書き連ねていったら気がつけば百枚超えるような長編小説を書いていた
私って文才あるかも、って調子こいて公募に応募した。
 才能があるんだからすぐにでも文学賞受賞して作家デビューだぁ!なんて思っていたら、これがどっこい、そうは問屋は卸さない。
書く→出す→ボツの連続で作家デビューなんて夢の夢、であの占い師のばあさんめ! とんだ食わせもんだったわい、って誰を恨んだところで結局、自分の才能のなさを嘆くだけで終わった。
だんだん公募疲れし、さらに目もかすんでくるはで長編を書く体力も失せてきた。まったく寄る年波には勝てない、で小説どころかエッセイでさえも長い文章が書けなくなった、
もう作家になるのはあきらめかけていたら、最近俳句甲子園だのテレビでも俳句番組があるのを見て、俳句なら超短い。
短い文ならいいじゃないかと、俳句に方向を変えた。
さっそくカルチャーセンターの夏井いつき俳句講座に受講申し込みをした。テレビでも名の知れた先生だけに受講をしてもすぐには受講できず、なるほど俳句人気に夏井先生人気で受講希望者続出なのを思い知った。ようやく一年待ちで受講することができた。
たった十七文字程度だからと甘くみていたら、これが大間違いだった。指折り数えて十七文字に収めるだけがやっとの私の俳句は「迷句」でしかなく、それにひきかえ受講者の方々はさすがに俳句の心得のあるかたばかりだけに見事に情景を織り込んだ「名句」ばかりで顔が赤らむ思いだった。
   このたった十七文字の中に「背景を切り取り」、「情感を詠む」ということの難しさを思い知った。
 それだけにこの少ない文字数の中にどれだけ作者の「思い」や「感情」を盛り込めるかというのが難しい、また難しいからこそ面白いともいえる。
 なるほど簡単なようで難しい、難しいようで簡単にはいかない。
 結局、どうあがいても難しいってことじゃないか。
そこはそれ、簡単にできないからこそ面白いともいえるのだ。
 何より一番勉強になったのは季語である。
季語は俳句においては絶対で、季語があることによって同じ夕暮れでも秋と春とでは違うように、季語によって情景や趣きが驚くほどに変わっていくのだ。
それだけに季節を表す日本語がこれほどまでにあったのかという驚きにもなった。
改めて日本語の美しさというのを再認識することにもなった。
季語を勉強することで辞書をひくようになった。
さらにほとんどワープロで書くことが多かったのが、やはり俳句は手書きというのが味わいがあるので手で書くようになった。
手で書くようになると不思議に手が覚え、頭に伝えるせいか、きちんと脳細胞に刻まれるのである。
ちゃんと覚えている、というのは何よりの収穫だった。
さしずめボケ防止にもなるじゃないかと我ながら小さな得を得た思いでいる。
 総じて文章でも電話でも長々しゃべっても、長々書いても結局頭に入るのは数語しか残らないのだ。
 だからこそ話は短く、文章も短いほうがいい。
 短ければ短いほどいいが、文章は短ければ短いほど難しいともいえる。
 十七文字が織りなす季節の移ろい、人生における吉備、これをいかにして表現するか、この妙義を身に着けるべく悪戦苦闘している。
 いつの日にか「迷句」脱却し「名句」にたどりつきたい、そう思いながら作句に取り組む日々である。

岡本青赤黄さん(61歳)/愛媛県

 

(一部の作文に、編集室がタイトルやルビをつけ、文字の訂正などをしています)

第1回「学びと私」コンテストの金賞作品はこちらから
8月(第1回)の金賞3本が決定しました

第2回「学びと私」コンテスト1次審査通過作文をチェック!
9月はこんな作文が集まりました![1]
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