それは十年来の友人とのお茶の席での話です。身に覚えのある方もいらっしゃるとは思いますが、久しく会っていなかった友人との再会は話に花が咲いてついつい脱線してしまいがちです。例にもれず、私も含め友人三人の話は近況から始まり、次第に学生時代の話へと舵を切りました。
「そういえば、現国で羅生門習ったのは同じクラスの時だったよね。」
「そうそう!それから面白いって話になって芥川龍之介の本をいっしょに読み始めたんだよね。」
懐かしいなぁ。と学生時代を振り返る二人に合わせて笑っていたものの、私は内心で冷や汗を掻いていました。当時私の友人には小説好きが多く、授業で名作と名高い小説が取り上げられる度、小説談義で盛り上がっていたのです。しかし、私は昔の名作と呼ばれる文学どころか、比較的読みやすいとされている昨今の大衆文学ですら手を伸ばさない、重度の活字アレルギーでした。
当時、活字が苦手な私は友人にコンプレックスを持っていました。しかし、ちっぽけなプライドが友人に打ち明けることをよしとせず、文学談義の際はそれを悟られないよう繕っていたのです。結局当時の活字に対する苦手意識は治らず、名作文学に触れるという課題に見ない振りを続けていました。そのツケが回ったのでしょう。十年後の会合ですら、私は苛まれる劣等感をひた隠しながら、話を合わせるほかはありませんでした。
お茶会の解散後、私は帰路につきながら、十年間逃避していた間に増長したコンプレックスを実感しました。そして、ひとつの疑問が浮上したのです。果たしてこのまま、活字に一度も向き合わないのが自分にとって最良なのか。挫折した十年前と今では、感性にも変化があるかもしれない。二十代を迎えた今ならば、私でも文学作品を楽しめるのでは、と思ったのです。
次の休日、私は図書館に足を運びました。ろくに中を閲覧したことがない私の目の前には、古い物から新しい物まで多数の書籍がズラリ、と整列していました。一種のお上りさん丸出しで恐々中を覗きながら、インターネットで調べた初心者でも入りやすい文学作品を探しました。そして、見慣れない本棚を確認しながらやっと見つけたのが、「江戸川乱歩」の短編集でした。
とりあえず、十ページずつ読んでみよう。そう決めた私は、その日の晩にまず一話目の「人間椅子」を読み始めました。すると、どうでしょう。驚いたことに、ページをめくる手が止まりません。美人作家に届いた奇妙な原稿から始まる、どこか浮世離れしたホラー。その魅力に憑りつかれた私は十ページどころか、全てのページを一気に読み切ってしまったのです。
やがて、最後のオチまでを読み切り、はっと我に返りました。ちょっと覗くだけのつもりが、いつの間にか乱歩の魔術にかかってドボンと全身浸かってしまったようでした。アレルギーの元と思っていたものが、こんなに面白いとは、と目から鱗が落ちる心持でした。江戸川乱歩の短編集との出会いは、私の文学への堅苦しいイメージを、極上のエンターテイメントへと変えてくれたのです。
以来私は、たとえ一ページでも毎日小説を読むようにしています。現在、最も面白く感じたのは「人間椅子」ですが、もしそれを超える驚きが待っているとしたら、読まずにいられましょうか。とりあえず、今度の文学談義には私も参戦できそうだと息を巻いている最中です。
(作文の一部に編集室が文字の修正などをしています)