週に一回、講座での悪戦苦闘
思い立ってフランス語の講座に行き始めた。二十年ほど前に大学で勉強したことがあるが、長年さぼり続けてきたフランス語。文法知識はあるので、辞書の助けがあればある程度の文章は理解できるのだが、とにかく喋れない。そもそもうまく発音できない。また、聞いても理解できない。典型的な「大学の教養課程の外国語」のなれの果てである。
そんな私が会話クラス中級に入門した。初めて授業を受けたとき、先生がゆっくり話すフランス語を、私の頭はまるでタイプライターを打つように忙しく文字に置き換えていった。文法だけの頭でっかちの自分にはそのような聞き方しかできないことに気付いて、私はすぐに打ちのめされた。これではスピードが少し早くなると、もうお手上げである。話せる言葉、使える言葉として、反射的に口から出たり聞いたりできるようになりたい。それには地道な努力、つまり何度でも慣れるまで反復することが必要だ。これは、私の日々の課題である。
もう一つ、授業の最初に、一人ずつ一週間の出来事を何かフランス語で短く報告しなくてはならず、これにとりわけ悪戦苦闘している。得意のフレーズ「ジュスィザレオーシネマ(私は映画に行きました)」はもう数回使った。毎週毎週、映画に行くわけにはいかない。必死に作文を考える。なんて忙しい一週間。そして、なんて楽しい一週間だろうか。
「生徒」になって感じた生きている実感
しかしながら、講座に通い始めて一番の収穫はなんと「フランス語の上達」でも「学ぶ楽しさ」でもなかった。それは実は「生徒という立場に身を置くこと」そのものにあった。
大人になって長年経つと、人に教えることはあっても人から教えてもらうことはあまりない。まして私は普段アルバイトで塾講師をしている。自分より未熟な者を相手にする時間が、自分と対等か自分より目上の人かを相手にする時間より、圧倒的に長い。毎日のことである。知らず知らずのうちに、「先生臭」というか、そんな謙虚知らずの偉ぶった態度が身についていたのではないだろうか、と思うきっかけとなった。
人前で、発表する、緊張する、間違える、恥をかく、覚える。他の生徒の発表に感心する。他の生徒と教え合う。先生の話を素直に聞く。先生に直してもらう。
このような生徒の立場を、かつては日常的に経験していたはずなのに、今ではとても新鮮に思う。「教える側」から「教えられる側」への立場の変換は、うまく表現出来ないのだが、私の精神衛生上とても良い影響を与えていると思う。まるで人間としてのバランスが良くなった気分がする。それは塾で再び「先生」という立場に立った時にも役立っていると、心の中で自画自賛している。
私が「生徒」になる時、分からないことが少しずつ分かるようになっていく、出来ないことが少しずつ出来るようになっていく、少しずつ成長していく、私はその「手伝い」ではなく「主体」だ。出来るようになるのは、他人でなく私だ。「先生」は、何年やっても、自分が新しく何か出来るようになったり分かるようになったりするわけではない。だから「生徒」の立場になることが、もうそれだけで、楽しく面白いことのように感じるのだろう。「生徒」になると、学ぶ主体になると、自分が自分を生きている実感がある。そのことに気付いた。
そういうわけで私は、いい歳した大人にこそ是非ともお伝えしたい。「生徒になること」それ自体が楽しいということを。
シツタマキさん(40歳)/神奈川県
(編集室が一部の文字や言い回しを調整しています)
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