「鳴かぬなら…」「鼠小僧」も、江戸最高のモノカキの人生

大名松浦静山の江戸暮らし ― 随筆・日記にみる松浦家の生活 @日本女子大学公開講座

江戸時代きっての文化大名といわれた松浦静山。彼が20年間書き続けた随筆はあっと驚く日本史ネタであふれている。彼の飽くことなき知識欲はどこからきたものなのだろうか。現代なら大物ブロガーかコメンテーターになったに違いない松浦静山の知の源泉とは。

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松浦壱岐守上屋敷(国立国会図書デジタルコレクション「江戸切絵図」よ
り)

江戸時代きっての文化大名といわれた松浦静山。彼が20年間書き続けた随筆はあっと驚く日本史ネタであふれている。彼の飽くことなき知識欲はどこからきたものなのだろうか。現代なら大物ブロガーかコメンテーターになったに違いない松浦静山の知の源泉とは。

信長・秀吉・家康の「ほととぎす」の句はここから

「松浦静山」の名を知る人も知らない人も、次の句は知っているだろう。

鳴かぬなら殺してしまえほととぎす
鳴かずとも鳴かして見しょうほととぎす
鳴かぬなら鳴くまで待てよほととぎす

戦国時代に天下取りで争った三人の武将、織田信長豊臣秀吉徳川家康のキャラクターを示す例としてたびたび引かれるエピソードだが、これが世に知られるようになったのは、随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に収められたのが最初だ。著したのは松浦静山(まつらせいざん、1760-1841)。肥前国平戸藩第9代藩主で本名は松浦清(きよし)。「静山」とは隠居後の号である。藩主を退いたあと20年にわたって綴った随筆が『甲子夜話』だ。

文政4年(1821)11月17日(甲子の日)に、大学頭(だいがくのかみ)林術斎(はやしじゅっさい)の勧めによって書き始められたこの随筆は、正篇100巻、続篇100巻、第三篇78巻に及ぶ

書かれた内容は、ロシアやイギリスなどの海外事情、シーボルト事件や大塩平八郎の乱などの重大事件から、幕府や諸大名の噂話、果ては鼠小僧や日本左衛門(にっぽんざえもん)などの盗賊の話までバラエティー豊か。当時の政治経済や文化・世情を知るのに格好の史料とされている。

この『甲子夜話』と、静山の奥方の日記「蓮乗院(れんじょういん)日記」(松浦史料博物館所蔵)から、当時の大名の実際の暮らしぶりを見てみようという一回限りの講座が、日本女子大で開かれた。題して「大名松浦静山の江戸暮らし――随筆・日記にみる松浦家の生活」。講師は同大文学部史学科講師の吉村雅美先生である。

「嘘かもしれないが書いておく」

『甲子夜話』が書かれた時代背景について、吉村先生はこう説明する。

松浦静山が生きた時代は幕藩体制が曲がり角を迎えた時代です。具体的には老中・田沼意次の時代から、松平定信の寛政の改革、そして天保の改革の直前まで。幕末よりもちょっと前の時代になりますね。生活が贅沢になる一方で収入は増えず、財政の立て直しが急務とされました。各藩でも盛んに藩政改革が行われ、いわゆる「名君」が輩出した時代でもありました。破たん寸前の米沢藩を再生させた米沢藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)もその一人です。

また、対外的には黒船来航(1853年)のちょっと前。ロシアの使節ラックスマンなどが来日した時代です。まさに内も外も大変革の波に洗われようとしている時代に、松浦静山は自分の見聞を次々と書き留めました。さしずめ現代なら、Twitterやブログのような感じで書いていったのではないかと思います。なかには、これはウソかもしれないけど書いておきます、とあるものもあります」

流言飛語は流言飛語としてしっかり書き留めておこうということか。そのおかげで、約220年後のいま、私たちはタイムスリップして当時を知ることができるのだ。このような稀有な随筆を遺した松浦静山とは、どのような人物だったのだろうか。

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