歴史豊かな南山城を歩く- 古墳・神社・寺院を中心に -
深草キャンパス
岡﨑晋明
講義詳細
【現地学習】古代、南山城は大和の背後で「山背」と命名されていました。「山辺の道」の北への延長の道筋にあたる歴史豊かな地です。『記紀』に記されている木津川周辺の舞台となった個所も多く存在しています。古墳時代、木津川の水運との関わりで発展してきた地域で、前期の鏡36面以上が出土した椿井大塚山古墳を初め大きな前方後円墳が存在しています。ヤマト王権と深い関係をもっていたのです。中・後期の古墳も幾つか知られています。 一方、律令期になると高麗寺跡、蟹満寺などの古代寺院の他に、井出町には左大臣をつとめた橘諸兄の別荘(相楽別業)があり、諸兄に関わる遺跡も多い。恭仁京への遷都はこの諸兄の影響があったとされています。このように『万葉集』や『古今和歌集』にも詠われたこの地を探索することにします。
【主な見学地】■飯岡古墳群(木津川堤から対岸を見る)/飯岡丘陵は、木津川左岸に接する独立丘陵で、飯岡車塚古墳、ゴロゴロ山古墳、薬師山古墳、弥陀山古墳、トヅカ古墳などが存在しています。飯岡車塚古墳は4世紀末の築造で明治35年に、トヅカ古墳は5世紀後半の築造で、明治7年に発掘調査が行われています。付近には咋岡神社があります。■橘諸兄の旧蹟/井堤寺(井手寺)は綴喜郡井出町にあり、同地にあった橘諸兄の相楽別業に附属した寺院とされています。現在は付近から見つかった礎石が集められ「井堤寺故址」の碑があります。諸兄の父は敏達天皇四世の孫で美怒王、母は県犬養橘三千代で、橘姓は母の姓です。小野小町は伝承では井堤寺の別当の妻になり、玉津岡神社の参道に墓があるとされています。上玉川橋周辺に「井堤蛙旧跡」と刻まれた碑などがあり、文化人にとって憧憬の地ということなのです。少し離れた地には、史跡・大安寺旧境内附石橋瓦窯跡があり見学します。■以仁王の墓(高倉神社)/平安時代の末、後白河天皇の皇子で三条高倉に住んでいた以仁王は、源頼政に勧められて、平家打倒の挙兵・武装蜂起を促した人物です。宮内庁比定の以仁王の墓が高倉神社にあります。■蟹満寺/『今昔物語』にある蟹の恩返しの伝承で有名な寺で、観音霊験説話です。創建由来は不詳ですが、発掘調査から飛鳥時代後期(7世紀末)の創建とされ、現在は本堂と観音堂を残すのみとなっています。もう一点有名なのは国宝釈迦如来坐像ですが、発掘調査では創建時から動いていないことが判明しています。■椿井大塚古墳/全長約175mの丘陵を切断した前方後円墳です。昭和28年に国鉄奈良線の拡張工事に際し、竪穴式石室が偶然発見され、鏡36面以上をはじめ多くの副葬品が出ています。築造時期は古墳の出現期で、3世紀末から3世紀中葉まで遡る説があります。■高麗寺跡/木津川右岸の台地に築かれています。飛鳥時代(7世紀前半)に創建され、白鳳期の7世紀の後半に伽藍が整ったと考えられています。金堂を左、塔を右に並置し、それを囲む回廊は北に講堂、南に中門に接続しています。昭和59年以降、発掘調査が継続され、現在は復元整備されています。
/(拝観料等を含む)
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