「心があるかどうか」ではなく「情報処理に心は必要か」
「人工知能と人間の知能」講座の講師を務める東京理科大学の太原育夫教授(工学部第二部経営工学科)によれば、人工知能の究極の狙いは人間の知能を模倣することなので、そこには当然、「心、意識、自我」といった概念も入ってこざるを得ないという。
「心、意識、自我」といったものはとらえどころのない計算不可能なもののように思えるが、人工知能はこれまでも計算不可能なものを計算可能にしてきたので、もしかしたら「心、意識、自我」も計算できるように(記述し操作可能なように)なるかもしれない、という。
その時、必要な考え方は、「人工知能に心があるかどうか」とか「心を実現できるか」という議論ではなく、「情報処理に心が必要かどうか」「心があればどういう情報処理ができるのか」という観点から考えたほうがよいだろう、と指摘する。
人間は何のために「意識」を獲得したのか
「情報処理に心が必要かどうか」「心があればどういう情報処理ができるのか」という観点で見たとき、それは人工知能だけではなく、人間の脳の情報処理についても問われることとなる。
つまり、人工知能について考えることはイコール、人間の脳の情報処理について深く考えることにもつながるのだ。
講座では数多くの脳科学の知見が語られたが、その中でもとくに心に残った点について記したい。
その一つが「意識は何のためにあるのか」で、前野隆司慶應義塾大学大学院教授の『受動意識仮説』が紹介された。
記憶(宣言的記憶――言葉で説明できる記憶)には、丸暗記して覚える「意味記憶」と、体験を日記のように記憶する「エピソード記憶」がある。歴史の年号や人の名前はなかなか覚えられない(意味記憶)のに、10年前に行った旅行のことは着いた日のことからよく覚えている(エピソード記憶)などのことはよくあることだ。このようにエピソード記憶は感情が関係したり物語が形成されたりして、記憶されやすい。
エピソード記憶があると、過去の出来事から将来を予測することができるので(あそこに行けば食べ物がある、というように)、生存に有利になる。このエピソード記憶を作り出すために「意識」が後付けでできたのだ、とするのが『受動意識仮説』である。
人間はAIのように大量のデータを記憶して瞬時に取り出すことはできない。だからエピソード記憶が必要だったのだが、それがAIにとって必要かどうかは、今後の研究になるのだろう。
欠けた円3つが三角に見えるということは……
また、太原先生は次の図を見せて語った。
「これは、『意識の現象的側面は幻想である』とする考え方の例としてよくあがるものです。私たちはここに三角形を見ることができます。でもあるのは、一部が欠けた円3つですよね。つまりないものをあるものとして見ているわけです。
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意識が幻想であるかはさておき、ないものをあるものとしてひとまとまりの形で認識するということは、バラバラのものを認識するよりも効率的。意識の現象的側面は、情報処理を効率化するのだとみることもできます」
意識が幻想だとしても、それは「私」という意識を作り上げているのには何らかのメリットがあるからではないか、それは上にあげたように情報処理の面で効率化できるからという考え方もあるのではないか、ということだ。
感情はどういう働きをするのか
最後に太原先生は、「感情」が情報処理に果たす役割について言及した。一言でいえば、それ(感情)はエピソード記憶におけるラベル付けだという。
「脳に入ってきた感情は、必ず感情系の脳領域を経由します。私たちはそこで感情によるラベル付けをしてエピソード記憶をするのではないか。なぜならそういうことをしないと、情報検索をするときに大変になるからです。楽しい記憶、悲しい記憶とラベル付けしておくと、呼び出す時にそれが重要な働きとなるのです。
もし人工知能が感情を持つとすれば、情報処理上、記憶整理に何らかの役割を果たすという利点からかもしれません」
これから人工知能は社会にも家庭にも、そして個々人の人生にも大きくかかわってくるだろう。こうした講座がもっと多く開かれ、人工知能を客観的に考えることのできる機会が多く持てるようになるのかも。
太原育夫
たはら・いくお 東京理科大学工学部第二部経営工学科嘱託教授 工学博士
1979年、東京大学大学院博士課程修了後、東京理科大学理工学部助手、講師、助教授、教授を経て現在嘱託教授。研究領域は、人工知能、準無矛盾推論。著書に『人工知能入門』『新人工知能の基礎知識』ほか。
◆取材講座:「人工知能と人間の知能」(東京理科大学公開講座 )
取材・文・/まなナビ編集室