研究成果を得るため空襲をしかけなかったアメリカ
登戸研究所の跡地は現在、明治大学生田キャンパスとなっている。明治大学文学部教授で平和教育登戸研究所資料館館長の山田朗先生は、陸軍登戸研究所をテーマとした公開講座の中でこう語る。
「登戸研究所が誕生したのは、今からちょうど80年前。1937年、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに日中戦争が拡大したまさにその年に、この生田の地に開設されました。兵器や兵器の資材を開発・研究する陸軍科学研究所の中に、秘密戦資材研究所という組織があり、それが登戸研究所の前身となりました」
第2次世界大戦の間は、偽札製造、さまざまな毒物や細菌兵器などの開発、怪力光線の研究、風船爆弾の開発など、さまざまな兵器の研究・開発を行っていた。その詳細については、別の記事「風船爆弾、怪力光線、偽札。帝国陸軍の諜報活動を学ぶ」をお読みいただきたい。
敗戦直前の1945年5月、戦局の悪化を受けて本土決戦に備えるため、登戸研究所は長野県を中心とした他地域に移転することになった。ただし、偽札の印刷工場だけは機械が巨大であったために移転できず、この登戸の地に残ったという。
戦争末期、川崎は激しい空襲を受けたが、登戸研究所は不思議なくらい空襲を受けなかった。これは、陸軍の開発していた研究成果をアメリカが得ようとしていたからだと推定される。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、登戸研究所だけでなく、満州第七三一部隊(主に生物兵器を研究していた陸軍の研究機関)についても個別に面談し、資料提供をもとに免責し、研究員は戦犯にはならなかったという。
暗殺用毒物実験の動物慰霊碑も
では、山田先生の講座内容を紹介しながら、今に残る登戸研究所の跡地をたどってみよう。
明治大学生田キャンパスは小田急線生田駅から歩いて10分ほどの丘の上にある。丘の麓からキャンパスまではエスカレーターが完備されているので、労なく行くことができる。
生田駅から最寄りの西北門からキャンパスに入ると、すぐ右手に、小さな祠が見えてくる。1943年に研究所敷地内に知恵(研究)の神を祀ったとされる弥心(やごころ)神社で、現在は生田神社と改称されている。
そこからキャンパスの奥へと向かうと、道筋のところどころに、旧陸軍のマークである「☆」印が刻印された消火栓を見つけることもできる。
キャンパスの東端、正門に近い場所には登戸研究所での実験で犠牲となった動物慰霊碑が建っている。これについて山田先生は、講座の中で語った。
「1943年、登戸研究所は暗殺用の毒物開発について褒賞を受け、1万円を下賜されました。動物慰霊碑と弥心神社は、この1万円をもとに建立されたそうです」
キャンパス内の西南奥に、外観は新しく見えるが、その作りやたたずまいに歴史を感じさせる建物が建っている。現在も残る登戸研究所当時の唯一の建物で、改装されて登戸研究所資料館として活用されている。
講師の山田先生は、この資料館の館長も務めている。資料館では、登戸研究所で開発されていた偽札や細菌戦用の器具、万年筆型の暗殺用武器、そして和紙で作られた風船爆弾の模型も展示されている。731部隊の隊長として知られる石井四郎が作った細菌戦用器具「石井式濾水器」なども実際に目にすることができ、科学技術や研究開発と軍事との関係について、思いを深めるにふさわしい資料館となっている。
資料館のすぐ脇には、陸軍の倉庫跡があり、うっそうと茂る緑のなかに、厳重に閉じられた倉庫入り口の様子を見ることができる(内部立ち入り禁止)。看板の説明によれば、通称「弾薬庫」と呼ばれているが用途は不明とのことである。
防火水槽もそこここに残っている。一部はいま花壇として使われているそうだ。
火薬庫もスパイ養成機関跡地も明治大学に
明治大学生田キャンパスの敷地は、そのまま陸軍登戸研究所の跡地に当たるわけだが、同大学と陸軍との不思議な縁(えにし)はこれにとどまらない。
「まったくの偶然ですが、明治大学の和泉キャンパスは、もともと江戸幕府の火薬庫があった場所で、近代には陸軍和泉新田火薬庫となっていました。京王線の明大前駅も、戦前は火薬庫前駅だったんです」(山田)
実は記者は明治大学のOB。和泉キャンパスにも通ったものだが、これは初めて聞いた話だった。また、明治大学中野キャンパスは、かつて陸軍のスパイ養成機関「陸軍中野学校」があった地の一角に位置する。中野学校跡地には、ほかにも、東京警察病院、帝京平成大学中野キャンパス、早稲田大学中野キャンパスがある。
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風船爆弾、怪力光線、偽札。帝国陸軍の諜報活動を学ぶ
取材講座:「陸軍登戸研究所の誕生から80年」明治大学リバティアカデミー 生田キャンパス
文・写真/安田清人(三猿舎)