明治初年まで十一面観音を飾っていた厳島神社
「日本古来の宗教といえば、神道を上げる人多いですが、いま残っている神道は、明治時代に始まった天皇制と神道を結びつけた『国家神道』の影響を色濃く受けたものが多いんです」(正木先生。以下、「 」内同)
では、まず昔の神道とはどんなものだったのか。
「たとえば、安芸の宮島の厳島神社は、明治初年までは、神様の本地仏として十一面観音を祀っていました。鎌倉の八幡宮でも、境内にたくさんお寺があったのです。もともと日本では、仏教と神道はとても密接に結びついていたのです。いわゆる神仏習合です。明治以前の神社の絵などを見るとわかりますが、もともと神社とお寺が併設されていたり、神社に仏像があったりと、仏教の影響が色濃かったのです」
なぜ現代のように、神道と仏教は、明確に違うものとして位置づけられるようになったのか。その大きな要因となるのが、明治政府が行った神仏分離と廃仏毀釈運動だったという。
「当時の日本は、江戸時代に終わりを告げ、将軍が統治する江戸幕府から、天皇を頂点とする新たな国家体制に転換しました。その結果、天皇を頂点として、日本という国をひとつにまとめるための手段として、『神道』という宗教を利用しようとするんですね」
伊勢神宮を頂点とする皇室祭祀のシステム
国家神道が生まれたのは、まさにこのころ。現在神社で行われている神事の数々も、明治以前は僧侶の業務の一環とみなされることが多かったが、それもきっちりと分業され、一部の僧侶は神官へと転向。また、神社に設置された仏像や仏具なども破壊されることになる。
そして、国家神道が、これまでの神道と大きく違った点は、伊勢神宮を頂点として、皇室祭祀や天皇崇敬のシステムと神社神道が組み合わされるようになったという点。これが、日本の多数の国民の精神生活に、大きな影響を及ぼしていく。
「伊勢神宮があらゆる神社の頂点として祭り上げられるようになったのは、まさにこのころ。伊勢神宮は『お伊勢参り』などに代表されるように、古くから日本人の間では参拝の対象ではありました。ただ、実は伊勢神宮の内宮と外宮の間にはたくさんの遊興町、つまり遊郭があり、『参拝』と同時に『観光』『遊び』の要素も強かったんです。また、天照大神の性別も、いまでこそ『女神』として位置づけられていますが、当時は男神と考えられていたりと、かなり定義もあいまいなものでした」
あの宮沢賢治も傾倒した新興宗教
国家神道による国民の一体感を盛り上げるのに、さらに一役買うのが、「戦争」だ。
「日清戦争に始まり、この時期日本は海外との戦争が増えていきます。いまでこそ、戦争は多くの人命を奪う悲惨なものだと認識されていますが、当時の国民にとって戦争は『お金になるもの』という認識もありました。実際、軍人恩給が出たり、好景気になっていたりしたため、国民の間でも『戦争は良いものである』『戦争は生活を楽にするものである』という風潮が無いとは言えませんでした。でも、戦争をするためには、国家が一丸となる必要がある。そこで、国民の間でも、個人に重きを置くのではなく、『国家第一』とする思想がどんどん高まっていくのです」
そして、盛り上がりを見せた国家神道は、一般市民主導の新興宗教へも影響をあたえていくことに。こうした新興宗教に傾倒する人々のなかには、日本を代表する童話作家として有名な宮沢賢治の姿もあったという。
「宮沢賢治は、法華経と国家主義が合体して生まれた国柱会という新興宗教の熱心な会員でした。一説によると、国柱会の幹部に、『君は童話を通じて、世の中に仏の心を知らしめなさい』と勧められたからこそ、あのような童話を生み出すことができたのではないか……と言われています。実際、宮沢賢治は自らの作品を「法華文学」と呼んだり、知人に送った手紙のなかに「これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です」と綴ったりすることもあったという。このように彼は非常に熱心な信者で、死の床でも曼荼羅を手元に置き続けていましたが、その反面、他の会員とはどうしてもなじめず、友人は一人もできませんでした。この事実は、賢治の内面を考えるうえでとても重要です」
宮沢賢治の残した数々の作品が、いまだ愛され続ける理由のひとつが、『雨ニモマケズ』に代表されるような、慈悲深く、無欲な自己犠牲ぶりだが、その根底には、国家主義に基づく新興宗教に対し、複雑に揺れ動く思いが流れていたのだ。
◆取材講座:「宗教はなぜ戦うのか 戦争と自死をめぐる宗教学入門」(早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校)
文/藤村はるな 写真/Adobe Stock, fotolia/oben901