美少年に何度も迫るも腹痛を理由に断られる信玄
信玄が少年に送ったという、実際の恋文の現代語訳がこちら。
「 一、弥太郎にはしきりに何度も言い寄ったのだが、虫気(腹痛)だといわれて、うまくいかなかった。まったくこのことに偽りはない。
一、弥太郎に伽をさせたことはない。この前もそのようなことはなかった。いわんや昼であろうと夜であろうとああしたことはしていない。ましてや、今夜については思いもよらないことである。
一、(弥太郎は)特に信頼している側近なので、いろいろ用を申し付けているから、かえってお疑いになっているようで、迷惑している……」
上記は、武田信玄が26歳のときに、家来の源助宛てに書いた手紙の一部である。
弥太郎とは何もなかったよと源助に言い訳三昧
この手紙の受取人である源助は、武田信玄にとっての衆道のお相手。今風に言えば、BL関係だったのである。
「伽」とは、ご存じのとおり「夜の相手をすること」だ。源助は、大変可愛らしい青年で、信玄は彼にメロメロだったと言われる。農民の出だったが、才能もあり、信玄に重用されて出世街道をまっしぐらに進んでいく。
その源助に、武田信玄が側近である弥太郎という少年との仲を疑われて、したためたのが上記の恋文だ。「人物でたどる戦国史」講座(早稲田大学エクステンションセンター)の授業で、丸島和洋先生(慶應大学文学部非常勤講師)はこう解説する。
「『え、男同士で関係を持ってたの?』と驚かれた人もいるかもしれませんが、これは江戸時代以前の日本では当たり前のことでした。結果的に武田信玄のこの文章が後世に残ったがゆえ、武田信玄=男好きというイメージが際立ってしまいましたが、衆道をたしなんだのは決して信玄だけではありませんでした。
ただ、おもしろいのがその内容です。別の少年との仲を疑われて、釈明の文章を書いたものの、『言い寄ったが失敗した。だから自分は潔白である』という内容では、果たして釈明になっているとは思えませんけどね(笑)」(丸島和洋先生、以下「」内同)
正直に話すところが信玄らしいといえば信玄らしい
嘘をつこうと思えばつけるのに、起こったことは、隠さずにすべて正直に言う。信玄自体は、ある意味、そんな男らしい潔白な性格の持ち主だったのかもしれない。
また、この手紙は「起請文」と呼ばれる形式を取っており、神仏に誓いを立てる契約書的なもの。信玄が、この源助にかなり尻に敷かれているような印象も受ける。
「この手紙において興味深いのは、当時の君主と家来の関係性ですね。本来家来である源助に信玄がへりくだった手紙を送っていること。弥太郎も君主から迫られても『腹が痛い』などと理由をつけて、信玄との関係を拒んでいます」
「武田信玄=坊主でガチムチ」は、間違い?
そのほかにも講義内では、武田信玄が有名な割には謎の多い人物であることが話題になった。そのひとつが、肖像画。
現在武田信玄の肖像画として有名なのが高野山成慶院に伝わるもので、そこで描かれている姿から「武田信玄といえば、坊主頭で肥満体」というイメージが強い。だが、実はその肖像画はまったくの別人ではないかという新説なども紹介された。
たとえ歴史教科書から消えても、こうしたちょっとしたエピソードで楽しめるのが、戦国・幕末のヒーローたち。また大河ドラマで信玄をやってくれないかなあ。
■取材講座:人物でたどる戦国史(早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校)
文/藤村はるな 写真/(c)takashikiji – Fotolia