信長と秀吉に愛された天才絵師
狩野永徳の才能を最も後押ししたのは、織田信長と豊臣秀吉だった。その証拠に、信長の安土城、秀吉の大坂城や聚楽第(じゅらくだい)といった、天下統一のシンボルとして天下人が築城した城の障壁画を依頼され、永徳は狩野派一門を総動員して制作に当たっている。残念ながらこれらの障壁画は戦火で失われてしまったが、それを彷彿させるのが、国宝『檜図屏風』(東京国立博物館蔵)だ。
この屏風はもともとは、八条宮(はちじょうのみや)の御殿を飾った襖絵だという。
秀吉が一時期、猶子とした智仁親王のために
子どもがいなかった秀吉は、後陽成(ごようぜい)天皇の弟宮である智仁(ともひと)親王を猶子(ゆうし=養子)とした。智仁親王は将来、関白職も約束されていたが、秀吉に待望の実子・鶴丸が誕生する。
そのため秀吉は猶子縁組を解消し、代わりに智仁親王のために新たな宮家、八条宮を創設し、山城国(京都府南東部)に当時の宮家中最大といわれる3000石余を与え、洛中に御殿を構えさせた。この時、智仁親王はまだ12才、元服すら迎えていなかったという。
この八条宮の新御殿のために秀吉が永徳に制作させたものが『檜図屏風』だった。
のたうつ大蛇から萌え出る若葉
上に挙げた画像は全体像の一部であるが、檜の巨木がのたうつ大蛇のように屈曲し、瑞々しい若葉をつけた枝は横へ上へと伸び、ものすごい生命力で成長しつつあるのが見てとれる。この奇怪な樹形は、晩年を迎えた永徳が生み出した独特のスタイルで、圧倒的な迫力をもって見る者に迫ってくる。
しかし、ただ大胆なだけではない。『週刊ニッポンの国宝100』第11号「檜図屏風・鑑真和上坐像」では、絵の一部を50%の縮小サイズで見られるが、枝先の若葉の表現のなんと緻密で繊細なこと。
天下人の豪壮と、若宮の将来。その二つがこの『檜図屏風』にこめられている。
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文/まなナビ編集室 写真協力/小学館