死後「変な絵」と評されたグレコの宗教画
エル・グレコ(1541-1614年)の『受胎告知』は、現在プラド美術館の名品中の名品である。しかし20世紀前半までは今ほど評価されておらず、プラド美術館の所蔵ではあったが、1980年代までの100年もの間、他の美術館に貸し出されていたという。松原先生は、『受胎告知』とグレコ評価の歴史を語った。
「グレコは生前、評価の高い画家でした。その評価は17世紀終わりまで続きます。ところが17世紀終わりから18世紀になると、急速にその評価が下がってくるのです」(松原先生。以下「 」内同)
グレコの絵画は独特なスタイル(前の記事「美術は裏話を知ってると楽しい『受胎告知』5つの鍵」)が特徴だが、それが高評価にも低評価にもつながったという。意外と美術の評価というのは曖昧なもののようだ。
「グレコの肖像画は死後も一定の高い評価を得ていましたが、宗教画に関しては『変な絵だ』と評され、グレコも『奇人』『変人』呼ばわりされるようになりました。改めて評価されるようになるのは、19世紀から20世紀初めの転換期です」
元は6枚1組の絵がナポレオン戦争でバラバラにされ……
グレコの『受胎告知』(プラド美術館蔵)は、エンカルナシオン学院(アラゴン学院)の聖堂主祭壇衝立のために描かれた6枚の絵のうちの1枚だった。上段に3枚、下段に3枚の構成からなり、下段は左から《羊飼いの礼拝》《受胎告知》《キリストの洗礼》、上段は左から《キリストの復活》《キリストの磔刑》《聖霊降臨》が描かれている。
19世紀初めに起こったナポレオン戦争のため、これらの絵画はバラバラにされてしまう。そのうちの《羊飼いの礼拝》がブカレストの国立美術館所蔵になっているのは、そのためだ。
そして1836年に、スペイン政府は修道院の財産没収命令を出す。
「財政問題を抱える政府は、対抗勢力である教会勢力をそいで王権を強化したいという思いがありました。そこで宗教団体が持っている資産を没収しようとしたのです」
プラド美術館で邪魔者扱いされていたグレコの作品
当初、修道院の作品群は新たに作られたトリニダード美術館に集められていたが、後に王室コレクションを母体として作られたプラド美術館(1819年設立)に併合された。
「ところが当時のプラド美術館は、今よりずっと小さくて展示スペースが全くなかったのです。多くの作品が展示されないままとなり、グレコの『受胎告知』もそのうちのひとつでした。邪魔者扱いされた『受胎告知』は、美術館の隅みに捨て置かれていたのです。当時の館長で画家としても有名だったフェデリコ・マドラソは『このガラクタをなんとかしたい、早くプラドから追い出したい』と人にこぼしていたという記録が残っています」
その後、バルセロナ近郊の篤志家が、自分の蔵書や美術品を集めて、図書美術館を作ることにし、プラド美術館に作品を貸してもらえるよう頼んだという。その際、渡りに船で放り出されたのが、この『受胎告知』だった。
前衛的な若者と、アイデンディティーを探る知識人の支持で
「ちょうどその頃、バルセロナ(カタルーニャ地方)やマドリッドで、同時にグレコ再評価の動きが出てきます。ピカソも交流のあったカタルーニャのモデルニスモ運動(新しい芸術様式を求める芸術運動でカタルーニャ版アール・ヌーボーとも呼ばれる)の美術家たちが、古いのか新しいのかわからないグレコの作品に前衛的なものを見いだし、運動の旗印にグレコを使おうとしたのです」
一方でマドリッドでは、学術的な理由でグレコ再評価が進んだという。
「1898年に米西戦争に敗れたスペインは、最後の植民地だったキューバを失います。その時に『スペインの未来はどうなるのか』と憂えた知識人集団が、自分たちの神髄を探るようになります。その中で『ギリシャ人でありながらスペインの魂がある』と、グレコを再評価するようになりました」
こうして、スペイン二大都市で、グレコ再評価のムーブメントがやって来た。
文化と政治は意外なところでつながっている
「プラド美術館に作品が戻る前から再評価されるようになりましたが、貸し出されていた美術館でも目玉の作品だったので、なかなか引き揚げることができなかったようです。そしてようやく、1980年代になり『《受胎告知》を返す代わりに他の目玉となる作品を提供する』という条件で、プラド美術館に作品が戻ることになったのです」
「学の独立」などと言うけれど、文化と政治は、意外なところでつながっているようだ。
グレコの作品が再び注目されるようになったのは、政治による社会運動が大きく影響していたのだ。ナポレオン戦争がなかったら、米西戦争に勝っていたら、今のグレコ評価はまた違っていたのかもしれない。
◆取材講座:「スペインの聖母像―美術と信仰」第2回「エル・グレコの『受胎告知』」(上智大学公開学習センター)
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文・写真/和久井香菜子