日本版CSRは、「企業の社会的責任」とはもはや別物
「企業の社会的責任とCSR」という講座名に違和感を覚える人も大勢いるだろう。なぜなら、「CSR」とは「Corporate Social Responsibility」。これを翻訳したものが「企業の社会的責任」だからだ。しかし小林先生は、流行語となった「CSR」はもはや、「企業の社会的責任」とは別物になってしまっているという。「CSRって何?」と問われて、「企業の社会貢献活動のことでしょ!」と簡単に答えてしまうのは、「Corporate Social Responsibility」という言葉が生まれた趣旨からすれば、とんでもない間違いなのである。
「まず、〈企業の社会的責任〉における〈企業〉〈社会〉〈責任〉とは何をさしているのか。〈企業〉とは現代の巨大企業、〈社会〉とは現代社会のこと。小さな企業であれば社会との間に不調和は起こらない。しかし企業が巨大になればなるほど影響力が大きくなり、結果、現代社会との間にさまざまな不調和を起こしていく。その不調和をどう解決していくか、その解決能力が〈責任〉なのです」(小林先生。以下「 」内同)
“自由”と“規制”の間で生まれた“責任”という考え方
企業と社会の間の不調和とは、たとえば環境破壊、安全性の問題、雇用問題など多岐にわたる。こうした問題が浮上してきたのは19世紀後半に入ってからだという。
「19世紀後半になると、企業が社会の中でさまざまな問題を起こすようになります。たとえば激しい価格競争の結果、淘汰が起きて一社独占になると、限られた資源を一社が独占して製品化し独占価格を設定するようになる。これは社会の利益と相反する。また、利潤を追求するがあまり、過酷な労働で労働者の心身が破壊される。これも社会の利益と相反する。そこで、この問題の解決方法の一つが“社会革命”、そしてもう一つの方法が“社会改良”でした」
社会改良とは、社会を改良することで社会問題を是正していこうとする考え方で、大きく分けると2通りの解決策がある。1つが〈規制〉による解決。これは度を超すと統制となる。日本は規制を長年続けてきた反動で、今は規制緩和を進めようとしている。もう1つが〈責任〉による解決。ただし、私たちが「責任を取ります」「誰に責任があるの?」などと使う日本語の〈責任〉とは少し意味が異なるという。
「“Corporate Social Responsibility” という言葉を生んだアメリカは〈自由〉の国。〈自由〉というのはアメリカの国是です。だから巨大企業がたとえ社会の公益性を損なうとしても〈規制〉はよしとしない。では規制しないでいかに解決するか。それが〈責任〉です」
社会的責任を考え抜いたカーネギーやフォード
〈責任〉とは、企業活動に自由を与えられたことに対して、企業が企業活動を社会と調和させるために解決する能力をさす。小林先生は、アメリカの大実業家だったアンドリュー・カーネギー(1835-1919年)やヘンリー・フォード(1863-1947年)を例にあげた。
「フォードは『藁のハンドル』(原題:today and tomorrow、1926年)という自伝を残していますが、その中には、フォードがさまざまなイノベーションを考える様子が描かれています。その一つに、プラスチックは環境破壊の要因になるから、藁からハンドルが作れないかと考えた話があります。彼は社会と共存するものとして企業を考えていました」
しかし、かつては経営者の倫理観が企業の社会的責任と結びついていたけれども、今は企業というものが100年前とはまったく変質したと、小林先生は語る。巨大企業は、消費者・株主・従業員・立地する自治体・取引先等、多数の利害関係者(ステークホルダー)を持つようになった。会社は株主のものだとする見方もあるけれども、巨大化し、複雑な利害関係者を持つ株式会社を、本当に株主だけのものだとしてよいのか、それは社会のものではないのかとする議論が続いている。そこを問うのが、現代の〈企業の社会的責任〉なのだ。
金儲けは経営学ではない
問題は、今の巨大企業のどこに〈企業の社会的責任〉を考える人や組織があるのか、ということだ。
「今や経営陣の鶴の一声で、違法残業がなくなったり、組織ぐるみの隠ぺい工作がなくなったりする時代ではない。問題のある人間がその組織に集まってしまったというわけでもない。組織そのものが持つ問題を体系化していくことが求められています。そこに経営学の理論が必要になるのですが、じつは経営学はこの半世紀、理論なき状態が続いています。
経営学と聞くと、どうすれば儲かるかを教えてくれるものだと思われがちですが、金儲けのテクニックは経営理論ではないのです。また、経済学、商学ともルーツが異なります。商学は16世紀に始まり、経済学は18世紀のアダム・スミスを祖とします。これに対し経営学は20世紀初頭に始まったのです」
経営理論なき経営のもたらしたもの
「経営学には2つの流れがあり、ひとつはフレデリック・テイラー(1856-1915年)の提唱した“科学的管理法”。これは生産性の向上をめざす経営工学へと発展しました。これを応用したのがトヨタのかんばん方式です。この学問分野はいま、工学部の中にあります。
もうひとつが、アンリ・ファヨール(1841-1925年)の提唱した“管理原則論”。ファヨールは、経営学というものを作って、経験と勘ではない経営理論を学校教育の中で教えていく必要があると説きました。しかしその後、学派が細分化していき、今や体系化された経営理論は“ない”状態です」
ファヨールは1916年に出版された『産業ならびに一般の管理』の中で、「管理能力を養成するための教育的措置がまったく講じられていない」と述べ、その原因を「『是認された定説、すなわち一般的経験によって検証され、確認された原則、規則、方法、手続きの集合体』(=理論)が欠如し、思いつきや個人的意見が横行していることにある」と断じたという。
「思いつきや個人的意見の横行」「理論の欠如」といった言葉は、経営理論の発展なき100年後の今もリアルに感じられる。
「企業の社会的責任」が、経営学の理論によってしっかりコーポレート・ガバナンス(企業統治の仕組み)の中に位置づけられていれば、数々の巨大企業の不正もどこかで歯止めがかかったのではないだろうか。
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◆取材講座:「企業の社会的責任とCSR」(上智大学公開学習センター)
取材・文・写真/まなナビ編集室