中国から持ち込まれた茶碗だが、中国には残っていない
中国・浙江(せっこう)省にある天目山。仏教の聖地として知られ、平安時代から鎌倉時代、日本からも多くの僧侶が修行に訪れた。そこで学んだ僧侶が日本に持ち帰った黒釉(こくゆう)茶碗をさして「天目」という。そしてのちに、黒釉のかかった喫茶用の茶碗を「天目茶碗」と呼ぶようになったのである。
中でも南宋時代(12─13世紀)に福建省の建窯(けんよう)で焼かれたものは、高台が小さく「天目形(てんもくなり)」と呼ばれる端正な鉢型をしていて、黒く艶のある色合いで有名であった。その中に、ごくまれに瑠璃(るり)色に煌(きらめ)くような斑紋が現れるものがあり、それを「曜変天目」と呼ぶ。
つまり「曜変天目」も中国から持ち込まれた茶碗なのである。しかし中国には今、残っていない。完全な状態の「曜変天目」は世界に3点しかなく、3点とも日本に現存している。静嘉堂文庫美術館、藤田美術館、大徳寺龍光院蔵が所蔵し、すべて国宝に指定されている。
なぜ中国に残っていないのか、どのように製作されたのか、すべてが謎の中にある。
春日局由来の茶碗
「曜変」の名は、焼成する時に窯の中で釉薬の色が変化することを表す「窯変(ようへん)」に、光り輝くという意の「曜(燿)」の字を当てたもので、「燿変」とも書かれる。
『週刊ニッポンの国宝100』(小学館)第4号「伝源頼朝像・曜変天目」では、とりわけ美麗な虹色の光彩を放つ、静嘉堂文庫美術館の「曜変天目」について、15pにわたって取り上げている。とくに内部を超拡大して掲載した「国宝名作ギャラリー」は圧巻。漆黒の釉の上に、瑠璃色の斑紋がまるで星のごとくに浮かび、まさに「曜(燿)変」。
ちなみにこの茶碗は、徳川家光が乳母である春日局に贈ったものが、その後代々、淀城主である稲葉家に伝えられたもので、「稲葉天目」の別名も持っている。
曜変天目の再現に挑む日本人も
「曜変天目」に魅せられ、日本でその再現に挑んでいるのが、愛知県瀬戸市の陶芸家、長江惣吉さんだ。長江さんによれば曜変の模様は蛍石という鉱石を熱することで生じる酸性ガスによって生まれる、という。長江さんは「曜変天目」を生んだ中国の建窯に合計28回、8年間通い、約80トンもの建窯の土を日本に運び込んだ。
「結局、建窯の真ん中で採れた黒土と赤土が最適でした。釉薬の原料も建窯の近くで入手しました。(中略)蛍石を用いた方法に失敗して、茶碗が白変したことがありました。ところが同様の白い陶変が、建窯の窯跡周辺からも見つかっているんです。これこそが、自分の方法が間違っていない証だと確信しました」(『週刊ニッポンの国宝100』第4号「伝源頼朝像・曜変天目」p37)。
800年以上も謎のまま人を魅了してきた「曜変」。その謎が解き明かされる日も近いかもしれない。
取材・文/まなナビ編集室 写真協力/小学館