鳥羽伏見の戦、錦の御旗は「水戸黄門の印籠」だった

東秀紀先生の「江戸・東京まちづくり物語」(その3)@首都大学東京オープンユニバーシティ

来年は明治維新150周年。首都大学東京では、元同大学教授で作家でもある東秀紀(あずま・ひでき)先生が、150年前にタイムスリップするような公開講座「江戸・東京まちづくり物語」講座を開いている。前回は都市計画の話を取り上げた(「京都猛反発を抑えるべく東京はなし崩し的に首都になった」)が、今回は明治維新の時の日本人の変わり身の早さを紹介したい。

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来年は明治維新150周年。首都大学東京では、元同大学教授で作家でもある東秀紀(あずま・ひでき)先生が、150年前にタイムスリップするような公開講座「江戸・東京まちづくり物語」講座を開いている。前回は都市計画の話を取り上げた(「京都猛反発を抑えるべく東京はなし崩し的に首都になった」)が、今回は明治維新の時の日本人の変わり身の早さを紹介したい。

新政府軍5000を圧倒する徳川軍15000

東先生は、一級建築士としての知識を生かして都市計画の観点から小説も多数刊行している作家でもある。その講座の真骨頂は、当たり前に思っている歴史事実に、作家ならではの新鮮な視点を提供するところにある。本日、取材して面白かったのが、鳥羽・伏見の戦いでの“錦の御旗”の話だ。

「鳥羽伏見の戦いは、明治新政府が徳川軍に勝利した内戦です。しかし戦いが始まるまでは、徳川軍のほうが兵力にして15000(徳川)対5000(新政府)と、3倍も優勢だった。よく、徳川軍は戦国時代の古い鎧兜で、薩長を主軸とする新政府軍の近代軍備と戦ったといわれていますが、徳川軍も主力の伝習隊などはフランスから軍事顧問団を迎えて十分に近代化が進んでおり、さらに海軍などは軍艦11隻をもつなど遥かに薩長をしのいでいました」(東先生。以下「 」内同)

急場しのぎの錦の御旗が

「ところが、戦いが始まるや、新政府軍は、錦の御旗を持ち出してくる。錦の御旗というのは賊軍討伐のために朝廷が下すもので、天皇家が2派に分かれた南北朝の時代などでは、双方が使っていたといわれています。そんないい加減なものなのに、これに手向かうと朝敵になるというので、徳川慶喜がびびって船で江戸に逃げてしまう。慶喜は実家が水戸徳川家で、尊王思想から錦の御旗のことを書物で読んでいたのでしょう。それに最初から戦う気などあまりなく、本心は煩わしい政治など、早く放り出して趣味人として生きたかったのかもしれない。いずれにしろ、親分がいなくなったので、皆が戦意を喪失し、満足に戦わないうちに、徳川軍は大坂城を明け放しにしたまま、江戸や会津に帰ってしまうんですね。

でも、このとき錦の御旗なんて、実は誰もそれまで見たことがなかった。それはそうですよ。500年前にあったと書物にあるだけで、どんなデザインかもわからないのを、岩倉具視が適当に作らせたものなんですから。でもそれが効力を持つというのが、いかにも日本的でおもしろい。

水戸黄門の印籠だって

水戸黄門の印籠だって同じでしょう? この印籠が目に入らぬか~って言われた瞬間、生まれてはじめて見るものに、ははぁ~って皆が地面にひれ伏す。錦の御旗もその名を聞いただけで逃げだしたり、260年間恩顧がある徳川を譜代藩さえ裏切ったりする。一番ひどいのはちょうど戦場近くに城があった淀藩で、殿様が幕府の筆頭老中として江戸に詰めているのに、国元の家老が独断で中立を宣言し、門を閉めて徳川軍を城に入れない。おそらく心の内では、もう徳川の時代は終わったと思ったのでしょう。

その後も日本では、今まで声も聞いたことがなかった昭和天皇がラジオ放送をすると、粛々と戦争をやめてしまうなどのことが起こっています。鳥羽伏見の戦いも終戦も結果として良かったと思いますが、われわれ日本人は、本音を言い当てられると、それっ!とばかりに集団的になびいてしまう傾向がある。岩倉具視はそうした人間の本質を熟知していたからこそ、錦の御旗という500年前の遺物を引っ張り出してきたのかもしれません」

〔あわせて読みたい〕
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◆取材講座:「江戸・東京まちづくり物語」〈東京編〉(首都大学東京オープンユニバーシティ)

文・写真/まなナビ編集室

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