1597年2月5日、26人のキリシタンが、豊臣秀吉によって長崎で磔の刑に処された(日本二十六聖人)。26人の中には長崎で布教活動を行っていたスペイン人やポルトガル人も含まれていたが、その多くは、パウロ三木やルドビコ茨木ら、敬虔な日本人信者だった。
「1587年にはキリシタン禁教令が発布されて、宣教師たちには追放命令が出されていました。それまでも、宣教師たちを“怪しい外国人”として怖れて迫害することは、よくあることでした。しかし、二十六聖人の殉教は、日本の最高権力者が、同じ日本人を、信仰を理由に処刑した初めての事件。当時の人にとっても、ショッキングな出来事だったと思います」
原爆投下を越えて今に残る書簡類
長崎で処刑された殉教者の遺骸は、マニラやマカオなど、世界各地の教会に送られ、現在も崇敬の対象となっている。一度海を渡ったが、長崎に里帰りした遺骨もあるそうだ。
また、九州を回って信者の支えとなった中浦ジュリアン(1633年に殉教)をはじめ、厳しい迫害のなか信仰に人生を捧げた多くの日本人キリシタンの書簡も、日本国内のみならず、ローマなど世界中に渡り、大切に保管されている。
「日本では250年にわたる厳しいキリシタン迫害の歴史がありました。また、長崎には原爆も落とされた。それでも遺骨や書簡といった資料が現在でも残っているというのは、それだけ殉教者たちの思いやその歴史を、本当に敬う人たちが日本国内外に多くいたということ。逆にいえば、どんなに国の政策として迫害をしても、人の気持ちや信仰、文化を完全になくすことはできないということです」
「長崎では原爆の3年後にはもう殉教祭が再開し、まだ教会もなにも復興していないところに多くの人々が集まり祈りを捧げました。殉教者を忘れてはいけないという、教会の人々の強い思いもあったと思います。政治や戦争によって多くの物や人が失われとしても、精神的な共同体が失われることはないのです」