美しいものには謎がある。姫路城のキリシタン瓦の怪

【連載】国宝の見方が変わる「姫路城」

2015年春、5年半にも及ぶ平成の大修理を終えて、美しく生まれ変わった国宝・姫路城(兵庫県)。世界遺産にも登録されている日本を代表する城郭だ。外観は白漆喰で塗り籠められた「白鷺城」とも呼ばれる優美な姿、内部は戦闘の場としての武骨な造り。それが姫路城の魅力だ。

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「白鷺城」の姿を取り戻した姫路城

2015年春、5年半にも及ぶ平成の大修理を終えて、美しく生まれ変わった国宝・姫路城(兵庫県)。世界遺産にも登録されている日本を代表する城郭だ。外観は白漆喰で塗り籠められた「白鷺城」とも呼ばれる優美な姿、内部は戦闘の場としての武骨な造り。それが姫路城の魅力だ。

「にノ門櫓」の鬼瓦には十字紋が

『週刊ニッポンの国宝100』(小学館)第6号「姫路城・鳥獣人物戯画」は、姫路城の見どころを写真と図版で紹介しているが、なかでも目をひくのが、特集「国宝原寸美術館」で紹介されている、黒田官兵衛ゆかりといわれる「にノ門櫓」の鬼瓦、“キリシタン瓦”だ。写真のように、そこには十字の紋がある。

鬼瓦や軒丸瓦などには、その瓦を作った城主の家紋を意匠として入れる例がある。姫路城には、現在の天守を完成させた池田氏の揚羽蝶紋、羽柴氏の桐紋などが多く、十字紋はこの「にノ門櫓」のみである。

黒田官兵衛から秀吉に献上された姫路城

姫路城の歴史は、南北朝時代の1346年に赤松貞範(あかまつさだのり)が姫山に城を築いたことに始まる。約100年後に一時、山名持豊(やまなもちとよ)が治めたが、応仁の乱で赤松政則(あかまつまさのり)が城を落として領国を回復し、赤松氏一族の小寺(こでら)氏が城代となる。

1545年、小寺氏の重臣、黒田重隆(くろだしげたか)が姫路城を預かり、重隆・職隆(もとたか)父子が主君小寺氏の許しを得て本格的な城館としたといわれている。その職隆の子が、のちに名軍師・黒田官兵衛の名で称される孝高(よしたか)である。城代となった官兵衛は 1580年、羽柴秀吉の中国攻略の際に城を秀吉に献上し、翌年、秀吉は3層の天守を完成させる。

姫路城・にノ門櫓の“キリシタン瓦”。三巴紋(1)と十字紋(2)がある(『週刊ニッポンの国宝100』第6号より)

三巴紋の意味するものは

「にノ門櫓」の鬼瓦に残る十字紋は、まるで十字架のように見えることから、キリシタン大名だった官兵衛とのつながりが指摘されてきた。

しかし、官兵衛がキリスト教に入信したのは1584年といわれ、秀吉による3層天守完成よりも後のことだ。また、姫路城を献上した官兵衛は、秀吉より播州揖東郡など1万石を与えられて篠ノ丸(ささのまる)城の城主となっているから、官兵衛のいない姫路城の鬼瓦に影響を及ぼしたとは考えにくい。

“キリシタン瓦”の十字紋が十字架とかかわっているのか、もしそうだとして官兵衛ゆかりのものなのか。築城年代などを考えていくと、無理がありそうだが、官兵衛と姫路城との深い結びつきを想像させる話である。

ところで写真の十字紋の上や軒丸瓦に入っている三巴紋(みつどもえもん)は、松平家の家紋のひとつでもあるが、水を表す紋で、火除けの意味が込められていたとされている。

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文/まなナビ編集室 写真協力/小学館

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