第2次大戦後、韓国の人々が必死に墓を守った日本人

なぜ人は旅に出るのか@明治大学リバティアカデミー

今からおよそ100年前、日本統治下の朝鮮で、朝鮮の優れた工芸文化を日本に広め、荒廃した山野の緑化活動に生涯を賭けた日本人がいた。その名は浅川巧(あさかわたくみ)。“朝鮮古陶磁の神様”と呼ばれた浅川伯教(のりたか)の弟にして、はげ山だらけだった韓国に緑を取り戻した人物だ。

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浅川巧を共同墓地に埋葬する朝鮮の人々。1931年4月5日里門里の墓地にて

今からおよそ100年前、日本統治下の朝鮮で、朝鮮の優れた工芸文化を日本に広め、荒廃した山野の緑化活動に生涯を賭けた日本人がいた。その名は浅川巧(あさかわたくみ)。“朝鮮古陶磁の神様”と呼ばれた浅川伯教(のりたか)の弟にして、はげ山だらけだった韓国に緑を取り戻した人物だ。

李朝白磁の美を日本に伝えた兄弟

明治大学リバティアカデミーで開講されている講座「なぜ人は旅に出るのか」は、高名な国文学者・民俗学者である明治大学名誉教授・林雅彦先生が、心の故郷を旅に求めようとした人々を取り上げ、その喜びと苦渋に満ちた人生を振り返ろうとするものだ。長年にわたって連続開講されている、明治大学の公開講座の中でも最古参の講座のひとつだ。

2017年春期の第1回目に選ばれたテーマは「浅川伯教・巧兄弟と朝鮮半島」だった。林先生にとって、浅川伯教・巧兄弟を取り上げることは、長年心に抱いてきたものだったという。

「浅川伯教・巧兄弟には30年くらい前から強い関心を抱いてきました。ことに弟の巧には、研究対象という存在を超えて、その生き方に強く惹かれます。以前、研究で韓国に1年間滞在したときも、その足跡をたどったものです。李朝白磁の美を日本に伝え、“朝鮮古陶磁の神様”と称された兄の伯教とともに、朝鮮の国土と文化に人生のすべてを捧げ、短い40年の生涯を全力で駆け抜け、最後は朝鮮の土となりました。彼の地で最も愛された日本人の一人でした。

先に朝鮮に渡ったのは兄の伯教でした。日韓併合から3年後の1913年(大正2年)のことです。朝鮮の陶磁器に強い興味を持っていた兄に続き、営林署に勤める技手であった弟の浅川巧も、翌年に朝鮮に渡り、朝鮮総督府山林課の林業試験場に就職します。そして二人は“李朝白磁”に出会うのです」(林先生)

左が兄の浅川伯教(朝鮮に渡ったころ)、右が弟の浅川巧

柳宗悦に渡した李朝白磁の小さな壺

こんにち韓国の首都ソウルを訪れた日本人の多くが訪れる仁寺洞(インサドン)。陶磁器や刺繍など、多くの工芸品店が軒を連ねるこの有名な観光地で、とくに目を引くのが白磁の店だ。柔らかい白色の光を内から放つようなその色味に、私たちは洗練された美を感じるが、白磁にそうした評価を与えたのは、浅川伯教・巧兄弟だった。

浅川兄弟が朝鮮に渡った100年前、当地で珍重されていたのは高麗青磁で、李朝白磁は骨董店でも高い評価は与えられていなかった。しかし、浅川兄弟はほとんど顧みられていなかった李朝白磁の美しさに魅せられた。そこで、浅川伯教は、当時、雑誌『白樺』で活躍していた柳宗悦(やなぎむねよし・民藝運動を起こした思想家)に、ひとつの壺を渡す。

それは李朝白磁の小さな壺で、のちに「面取染付秋草文壺(めんとりそめつけあきくさもんつぼ)」と名付けられる。これをきっかけに、浅川兄弟と柳宗悦との交流が始まる。そして1924年(大正13)、柳宗悦と浅川兄弟は、日本統治下の京城(今のソウル)に、朝鮮民族美術館を設立し、朝鮮文化の保存・継承の拠点とする。

その浅川巧がもっとも尽力したのは、朝鮮の国土の緑化だった。

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