「どちらが真の主人公か?という問題は、実は後期三部作に共通したものです」と相良先生は明かす。
なぜあえて、読者を煙に巻くような複雑な構造にするのだろう?
相良先生いわく、「複数の主人公を置くことで真実を相対化し、読者に複眼的な思考を促しているんです」
「自分の人生を生きているか?」と漱石は問う
もう一つのポイントは、語り手の敬太郎がモラトリアムを過ごしており、実社会から離れた存在である点だという。
「便所から帰って夜具の中に潜り込む時、まあ当分休養する事にするんだ」(作品本文より)などとつぶやき、気の向くままに歌舞伎を見に行ったり、文芸評論めいたことをしている。なるほど、敬太郎はいわゆる「高等遊民」そのものだ。
「経済的には恵まれていて、自分で稼ぎを得る必要のない敬太郎は、生活者の視点を持たず、何に対しても観察者に過ぎない。つまり、自分のドラマをつくっていない。自分の人生を生きていないわけです」と相良先生。
これは敬太郎だけの特質だろうか? 「現実に対して部外者のような姿勢は、きわめて現代的」だと相良先生は指摘する。
あふれんばかりの情報に囲まれて、何でも疑似体験できてしまう今日、多くの人が自分で体験することなく、「プチ評論家」になりがちな世相を先取りしていたと言えるかもしれない。
〔講師の今日イチ〕読み返すほどに新しい発見があるのが漱石作品の魅力
〔大学のココイチ〕会場の「鶴見大学会館」は、JR京浜東北線鶴見駅西口から徒歩1分とアクセスもいい
取材講座データ | ||
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「『彼岸過迄』を読む」 | 鶴見大学生涯学習センター | 2017年春期 |
2017年4月14日取材
文/小島和子 写真/小島和子(講義風景)、国立国会図書館website、小学館SVD