来日47年の米国人教授「政治と宗教に必要なものとは」

【Interview】上智大学総合グローバル学部教授デヴィッド・J・ウェッセルズ先生(その2)

イスラム国の報道を見聞きするたびに疑問に思う。人々の平和と幸福を願う宗教がなぜこのような残虐なことができるのか、と。来日47年目を迎える上智大学総合グローバル学部教授でカトリック司祭のデヴィッド・J・ウェッセルズ先生は、政治と宗教の関係を考える重要なキーワードとして「寛容」をあげる。その言葉が指し示す意味は何か。(前の記事「来日47年米国人教授「日本人はもっと宗教を学ぶべき」)

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上智大学総合グローバル学部教授でカトリック司祭のデヴィッド・J・ウェッセルズ先生

イスラム国の報道を見聞きするたびに疑問に思う。人々の平和と幸福を願う宗教がなぜこのような残虐なことができるのか、と。来日47年目を迎える上智大学総合グローバル学部教授でカトリック司祭のデヴィッド・J・ウェッセルズ先生は、政治と宗教の関係を考える重要なキーワードとして「寛容」をあげる。その言葉が指し示す意味は何か。(前の記事「来日47年米国人教授「日本人はもっと宗教を学ぶべき」)

私たちの教えがなぜ戦争や暴力へと導かれるのか

ウェッセルズ先生は1970年に初来日し、1972年上智大学に奉職した。1976年にアメリカに戻って博士号を取得したあと、1981年に再来日、上智大学で国際関係論を教えるかたわらイエズス会司祭としても活動している。

ウェッセルズ先生は、この秋、上智大学公開講座で「政治と宗教の課題」と題して4回の講座をもつ。各回のテーマは「現代の宗教と政治ーテロ?平和?」「歴史における宗教と政治の和解」「近代の政教分離」「バチカン外交を含む事例」である。これらを考えるとき、理解しておいたほうがよいキーワードについて訊ねた。

「政治と宗教について考えるとき、とても大切なのが“寛容”ということです。その大切さを知るためには“宗教の自由”について学ぶことが大切です」 (ウェッセルズ先生。以下「 」内同)

「宗教の自由」はなぜ世界各国の憲法に入っているのか

「幕末の1858年に日本とアメリカの間で結ばれた日米修好通商条約がありますね。この条約には、“宗教の自由”の項目が入っています。すなわち、日本に滞在するアメリカ人が自由に自分の宗教を実践できると定められています。このことを日本人はほとんど知りません。当時これにサインした日本人は“宗教の自由”がどういうことなのかわかっていたのだろうかと疑問に思います。おそらく理解できないままサインしたのでしょう。しかし“宗教の自由”ということは、近代国家が交流する時にそれほど必要なことだったのです

ウェッセルズ先生によれば、現在、世界中の国の憲法で、“宗教の自由”を謳っていない憲法はほとんどないという。

「なぜ“宗教の自由”をわざわざ憲法に入れなければならないのか。それは“宗教の自由”がなかったら“宗教の自由”が奪われやすいからです。宗教は人間の精神と深くかかわるもの。昔はそこに自由はなかったのです。それが認められ始めたのは、ヨーロッパでも17世紀あたりから所によって少しずつ、という感じでした。アメリカでは、合衆国憲法の中の基本的人権にかかわる修正第10条が1789年に定められ、その中に“宗教の自由”が記されました」

「宗教の自由」を認める政治、認めない政治

“宗教の自由”の根底にあるのは”寛容さ”だ。政治がさまざまな宗教の自由を認める寛容さ、そして宗教が他の宗教を認める寛容さ。だから全体主義・独裁主義は宗教を嫌うという。

「ナチズムはユダヤ教を認めませんでした。また、中国の憲法には“宗教の自由”が書かれていますが、実際には、中国共産党のコントロール下にある宗教しか認めない。なぜ独裁主義が宗教を嫌うかわかりますか?」

宗教は自分を越えるものの存在を認めるもの、信者同士の精神的な連帯を築くもの、それゆえに嫌われるのだろうか。

そうです。しかしそれを求めるのが人間の本質なのです。宗教は人と人とをつなぐ絆でもある。独裁主義者は、人が支配者のコントロールを離れてつながることを極端に恐れます。いま中国ではキリスト教信者が拡大しており、中国共産党は脅威に感じています

そして先生は1冊の本を紹介した。

事例と文献

THE AMBIVALENCE OF THE SACRED─Religion,Violence,and Reconciliation

『THE AMBIVALENCE OF THE SACRED』。副題には「Religion,Violence,and Reconciliation」とあり、直訳すれば「神聖なもののあいまいさ─宗教、暴力、和解」だろうか。

「現代世界における宗教のイメージはあいまいです。本来、政治も宗教も、人々の平和と幸福を願うもの。けれど、ただ宗教の旗を掲げて暴力をふるう人もいます。世界中の平和を求める宗教者は、どうして私たちの貴重な教えが暴力や戦争に導かれるのだろうかと、みな悩んでいます。ある宗教者は暴力をふるい、ある宗教者は平和を求める。しかしそこにシンプルな答えはなく、多くの本が出ています。この本もそのひとつです」

ウェッセルズ先生は2010年に始まった“アラブの春”にも触れた。

「チュニジアから始まったアラブの春と呼ばれる民主化運動がありましたね。北アフリカと中東の政治が、次々と独裁政権から民主主義へ変わってきましたが、その民主主義には宗教的寛容さが欠けていました。“宗教の自由”は民主主義によって自然と導かれるものではなく、政治が宗教に対して、宗教が政治に対して寛容でなければなりません。ステパン(Alfred Stepan)という政治学者はこれを双子の寛容(twin tolerations)と定義しています。権利と寛容は結びついています

宗教者による「和解」と「祈り」

ウェッセルズ先生に訊ねた。「寛容性を欠く社会の中で、人々が平和に暮らすために宗教者ができることは何なのでしょうか」

「基本的なものは、”祈り”です。今までも平和のための祈りがたくさん行われてきました。平和を考え、祈ることがとても大切なことなのです。そして、”対話”と”和解”。たとえば真実和解委員会(重大な人権侵害があった場合、過去の経緯を明らかにしながら敵対したもの同士が和解していこうとする取り組み)にも宗教は大きな役割を果たしています。

もう一つの事例は、2017年9月6日から10日まで、教皇フランシスコがコロンビアを訪問しました。その目的は、60年続いた内戦が終わったコロンビアのこれからのために、対立していた政府やゲリラを含めて国民和解のための祈りの集会を開くことが目的でした。コロンビアは国民の9割以上がカトリック信者です。教皇は今までにも何回もコロンビアを訪れ、平和の祈りをしてきました。これがバチカン外交の事例の一つなのです。宗教の”対話”と”祈り”は平和をもたらす力があるのです

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来日47年のアメリカ人教授が語る「日本人がもっと宗教を学ぶべき理由」

取材・文・写真/まなナビ編集室

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