最先端蘭学医の杉田玄白に首痛診させた大名夫人日記

「大名松浦静山の江戸暮らし――随筆・日記にみる松浦家の生活」@日本女子大学

  • 公開 :

「蓮乗院日記」を所蔵する松浦史料博物館

比べて読むと夫婦の目線の違いがわかる

「蓮乗院日記」は1793年から1813年までの20年間に書かれ、夫・静山の『甲子夜話』は1821年から1841年までの20年間に書かれている。そこにはタイムラグがある。しかし『甲子夜話』に“回想”として書かれている内容が、「蓮乗院日記」の中に“リアルな出来事”として出てくるものがあるのだ。たとえば、静山とほかの大名や知識人との交際について触れた部分などである。

『甲子夜話』に、静山が寛政末年から享和年間(1800-1803)頃に親しく付き合った幕臣や大名を懐かしく回想するシーンがある。その中でも特に親しかったのが、備後福山城主の阿部正精(あべまさきよ)だった。その具体的な交流シーンが、「蓮乗院日記」に描かれている。

「蓮乗院日記」享和3年(1803)3月1日条によれば、静山は江戸藩邸の客殿や茶屋で、阿部正精や林大学頭らと面会した。その席に蓮乗院もちょっと来いと呼ばれたとある。

また『甲子夜話』と「蓮乗院日記」で、ニュアンスが異なるものもある。4度蝦夷地(えぞち、北海道)に行き、千島列島・択捉(えとろふ)島を探検した近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)について、『甲子夜話』で静山は、人品が劣ると厳しく述べているが、「蓮乗院日記」享和3年7月18日条には、近藤重蔵が藩邸を訪れ、深夜遅くまで滞在し、屋敷で花火をあげて三味線などの演奏があった、とあり、親密な交際があったことがうかがわれる。

なかでも興味深いのが、蘭学者・杉田玄白(すぎたげんぱく)らをめぐる記述である。

「杉田玄白に首の痛みを診てもらいたい」

杉田玄白といえば、歴史の教科書にも必ず登場する高名な蘭学者である。しかし「蓮乗院日記」享和3年(1803)4月7日条には、次のように書かれている。

御部屋様(蓮乗院のこと)去冬よりは御ゑりに御こはり(注:頸部の痛みか)出来、(中略)杉田玄白と申外御やくきのいし(注:幕府の医師)へ御みせ成されたく仰せ出され、(中略)九ツ過罷出、こなたよりいらせ候て御伺申上候、何そ御つらき事にては御座なく由申上候、御次にて御茶御菓子被下候由ニ候(以下略)

蓮乗院が首の痛みを覚えたため幕府の医師である杉田玄白を呼んで診てもらったあと、お茶とお菓子を出したというのである。また、別の条では、息子(のちの10代藩主・煕)に吹き出物が出たのでその治療のために、こちらも高名な蘭学者である桂川甫周(かつらがわほしゅう)を呼んだという話も出てくる。

杉田玄白や桂川甫周は、幕府お抱えの医師であると同時に、時代の最先端をゆく蘭学者でもあった。そうした学者を治療のために呼ぶとはちょっとした痛みに、神の手をもつ医師に来てもらうようなものだろうか。

では『甲子夜話』では杉田玄白や桂川甫周はどう描かれているかというと、医療活動をおこなう医師としての姿は描かれず、静山は、彼らの医学・蘭学についての知見や、オランダ語の翻訳についての功績を書き留めている。

蓮乗院は、夫静山の知のネットワークを利用して優れた医師でもある二人の治療を受けただけなのかもしれないが、静山が蘭学者として高く評価する玄白も甫周も、その妻から見ると「かかりつけの医者」の一人だったという実情がうかがえる。

「蓮乗院日記」の研究はまだ始まったばかりだという。しかし、こうして一部に触れただけでも、大名家の家族の実像を探る上で実に興味深い情報が含まれている。

〔前の記事〕「鳴かぬなら…」「鼠小僧」も、江戸最高のモノカキの人生

取材講座:「大名松浦静山の江戸暮らし――随筆・日記にみる松浦家の生活」(日本女子大学公開講座)

〔あわせて読みたい〕
指で触って楽しむ「江戸のインターネット」浮世絵
バニラ・エア車いす搭乗の背景にあるものは 

取材講座:「大名松浦静山の江戸暮らし――随筆・日記にみる松浦家の生活」(日本女子大学公開講座)

文・写真/安田清人(三猿舎)

1 2

-教養その他, 日本文化, 講座レポート
-, , , ,

関連記事