韓服を着て朝鮮語を話し、はげ山を緑の大地に
現在、韓国は緑豊かな国という印象を持つ人は多いだろう。しかし100年前は乱伐により、はげ山だらけだったという。浅川巧は朝鮮総督府山林課に勤める技手として、山林の再生に尽力した。
どんな樹種が適合するのか、日本からさまざまな種子や苗木を持ちこんでは植林実験を繰り返すが、なかなか成功しない。最後にたどり着いたのは、その土地の種なり苗なりを植えなければならない、ということ。そして、露天埋蔵発芽促進法を開発し、人工的な発芽は困難と思われていたチョウセンゴヨウマツの発芽に成功する。
本講座の受講生の手元には、林先生による手作りの詳細な年譜が配布された。そこに記された彼の事績を眺めるだけで、植林活動にかける巧の情熱が垣間見える。
朝鮮の文物や自然を深く愛する巧は、職場にもチョゴリなどの韓服(かんふく)を着て通い、朝鮮語を話し、現地に溶け込んで暮らした。給料をもらうと、最低限の必要な額だけとって、あとは現地の貧しい人々に寄付したという。
そんな彼だけに朝鮮総督府の政策には怒りを感じることも多かった。林先生は、彼の日記にはさまざまな葛藤が見てとれるという。1922年、朝鮮神宮を建設するために城壁が破壊された時には、日本の神社を作るなどということをやるより、破壊をやめよ、朝鮮人の心を大事にしなければならないと書いている。また、1923年の関東大震災に際して朝鮮人虐殺が報じられた時は、これを厳しく批判している。
1931年4月2日、浅川巧は風邪をこじらせて40歳の短い生涯を終えた。葬式には数多くの朝鮮の人々が参列し、棺を担いで運び、悼む歌をうたいながら共同墓地に収めたという。日本が戦争に負けたとき、人々はその墓が暴かれないように隠して守った。死後35年経った1966年、忘憂里(マンウリ)共同墓地(1942年、里門里より改葬)に、「浅川巧功徳之墓」の碑が建立された。
何事も知ることから始まる。こういう生き方をした日本人がいて、あの時代にそうした日韓の交流があったことを知るだけでも何かが変わる気がする。
◆取材講座:「なぜ人は旅に出るのか その14」第1回「浅川伯教・巧兄弟と朝鮮半島」(明治大学リバティアカデミー2017年春講座)
文/まなナビ編集室 写真/浅川伯教・巧兄弟資料館(山梨県北杜市)