本郷先生の想像では、ガラシャは強烈なファザコンだったのではないかという。しかし、その敬愛する父・明智光秀が滅ぼされるひとつのきっかけを作ったのが、舅の細川藤孝であったことに、ガラシャの大きな悲劇があった。
明智光秀を死に追いやったのは、細川親子?
細川忠興の父・藤孝は、明智光秀の親友であり、部下でもあった。その縁で、光秀は、親友・藤孝の息子である忠興に、愛娘の玉を嫁がせた。それはいわば、光秀の、細川父子に対する絶大な信頼のあらわれでもあった。ところが、本能寺の変が、すべてを変えてしまう。
「本能寺の変のとき、光秀は、自分の部下で親友でもあり、縁戚関係もある細川藤孝が、まさか味方につかないとは思わなかった。ところが藤孝っていう人は“保身の天才”とでもいうような武将でね、ここで光秀についたら共倒れだと判断したんでしょう、味方はできかねることを伝えて、頭を剃って“幽斎”と名乗って、息子の忠興に跡を継がせた。ここに、忠興が細川家の当主になるわけです」
大親友・細川藤孝が明智光秀に味方しなかったことは、明智に味方しようかどうしようかと悩んでいた武将たちに、とんでもないインパクトを与えたという。
藤孝ですら味方をしないのか、と知った武将たちは、次々と光秀から離れていった。明智光秀が山崎の戦いで秀吉に敗れた背景には、この藤孝の行動があるという。
光秀の落胆はいかばかりだったろうか、それを切々と物語る細川家にあてた手紙がある。