まなナビ

密通小説だった源氏物語の言葉ひとつひとつを味わう

さまざまな工芸品にも意匠として使われる源氏物語

〈ゆっくり読み返す〉という言葉にひかれてやってきた、中央大学駿河台記念館での源氏物語講義。学生時代は古典なんて眠いだけと思っていたけれど、デザインの仕事をするようになってから、表現の幅を広げなきゃと古典を読むようになった。だけど好きなジャンルというわけではない。しかし、講義前に聞いた講師の池田和臣先生(中央大学文学部教授)のお話に目がさめた。

チンパンジーと違うから源氏物語を読もう

「人間とチンパンジーの違いが分かりますか? チンパンジーと人間は遺伝子情報がほとんど一致すると言われている。しかし何が違うのか。言語を操れるか操れないか、です。人間には絶対的に言葉が必要なんです」

え! いきなりチンパンジーの話? 〈ゆっくり読み返す源氏物語〉(中央大学クレセントアカデミー)の講師池田和臣先生は、講義前の取材でいきなり切り出した。『源氏物語』とチンパンジーがどうつながるの、とやや目をシロクロさせながら、先生の穏やかだけれど凜とした語り口に思わず背を伸ばす。

「どの国も、どの民族も、かならず“神話”を持っているでしょう。神と人間との関係を言葉にしたのが神話です。それが一般の人々の間に降りてきたものが”物語”です。だから物語は、人間にとって新しいものを生み出すために、とてもだいじなものなのです」

私もそのひとりだが、現代人は即効性を求める。古典のように時間をかけて噛み砕いて読むような本はめんどくさいし、時間の無駄。短時間でパッと読めて、必要な情報を得られる本を読んだり、調べ物はネットでやればいいという考え方に陥りがちだ。

そういう人たちがすぐに飛びつくのが、“あらすじ”。しかし池田先生はこれにも厳しい目を向ける。

「文学とは何だと思いますか? たんに考えを文章にしただけでは文学ではありません。文学とは、“文体”です。たとえば夏目漱石の『坊っちゃん』をあらすじで読んで、読んだことになりますか? ならないでしょう? 大変ありがたいことに、日本は使用する言葉が変わるほどの侵略を受けたことが一度もない」

「だから『源氏物語』も原文を読む、というのが私のスタンスです。一行一行、わからない言葉を確認しながら読んでいく。だから、〈ゆっくり読み返す源氏物語〉なんです」

「そうすると、紫式部の書いた文体が頭と心に入ってくる。一千年も経っているのに、その言葉にこめられた深い意味がわかる。すごいことです」

はい! チンパンジーじゃないんだから、しっかり『源氏物語』を原文で読みます! 一行一行だけど・・・(ついていけるかしら)。かくして〈ゆっくり読み返す源氏物語講座〉が始まった。

池田先生手作りのテキスト

特別な死を与えられた4人とは?

今回勉強したのは、「薄雲」。『源氏物語』で最も優れた女性であり、光源氏が一番愛した女性である、藤壺が、死ぬ。

〈ゆっくり〉と講座名にあるとおり、池田先生は、一つ一つの言葉を辞書のように丁寧に訳していく。一番後ろの席で受講していたのだが、説明は聞き取りやすく、古文になれていない身にとっても、スピードがちょうどよい。

死に瀕した藤壺は37歳。厄年である。池田先生によれば、厄年という概念は平安時代からあるとのこと。十二支の暦の廻る順番プラス1が厄年。つまり、13歳、25歳、37歳、61歳。37歳の藤壺は、厄年を迎え、今まさに死の床についているのである。

藤壺と源氏は、誰にも言えない大きな秘密をずっと共有してきた。源氏が18歳のとき、父帝の妻である5歳と少し年上の藤壺と不義の関係に陥り、藤壺は罪の子を、帝の子として産み落としたのだった。

それが今の帝の冷泉帝。天皇の子ではないのに、天皇になってしまったのだ。 冷泉帝はこのとき、まだ自分の父が源氏とは知らない。そのことを池田先生はこう説く。

「本当の父が源氏であることを、この時まだ、帝は知らないのです。知らないということは、親に対する孝行ができないということです。それは天皇の汚点になる。このように深く重層的な意味を『源氏物語』は言葉のひとつひとつに含ませているのです」

そして、藤壺は死ぬ。「燈火などの消え入るやうにて」と原文に書かれていた。 これは燈火が消えるように藤壺が亡くなったということ。池田先生によれば、『源氏物語』の死の記述は非常にあっけなく、おおかたは「はかなくなりぬ」のみ。それには、仏教の世界観が影響しているという。

人間のいのちは一木一草と同じ、死すれば自然に帰るだけ。しかしここでは、「燈火などの消え入るやうにて」と、描写が付加されている。じつはこのように死について特別な描写がされているのは4人しかいないという。

その4人とは、藤壺、紫の上、柏木、大君。紫式部は、その4人に〈特別な死〉を与えたのだ。  

静かななかにも緊張感の漂う講義風景

小説のおもしろさを知れば、表現力も磨かれる、かも!?

池田先生の講義はこのように、『源氏物語』がよくわかるだけでなく、小説を読むおもしろさも教えてくれる。

31歳の光源氏と37歳の藤壺の恋愛。 当時の37歳といったらかなりのおばさんと言ってもいい。プレイボーイの光源氏ならば、他にいくらでも女性を選ぶことはできたはず。でも母のおもかげを感じさせる藤壺は、ずっとそばにいてほしい女性だったのかもしれない。

光源氏はみずから藤壺の死を看取る。本当に最愛の女性なのだ。私も歳を重ねても、こんなふうに書かれたり、印象に残るような女性になれればいいなあと思ってしまった。

そして印象に残ったのが、『源氏物語絵巻』の藤壺には必ず夕日が描かれているということ。夕日がさしこみ、遠くに山が見え、その山に接している空に木の影がかかり、そこに雲がたなびいている。その雲は鈍色(にびいろ)、つまり葬式の色。平安貴族にとって最高の願いが、極楽往生。阿弥陀仏がお迎えにくるときは、紫雲に乗ってやってくる。雲は夕日に照らされ紫色に輝くのだ。

私のなかで『源氏物語』が具体的なイメージをもって輝き始めた。私はデザインの仕事をしている。脳をあまり使わないでいると、どんどん退化していくような気がしていた。マンネリに陥らない表現力を鍛えるためにも、古典を読んでボキャブラリーを増やしたいと思った。

源氏を学んで日本文化を語りたい

「この講座、面白かったでしょう?」 

講義終了後、隣の女性が話しかけてきた。振り向くと、バーバリーのコートを着てグッチのバッグを持つ50代くらいのマダム。ご主人の転勤で15年ぐらいニューヨークに住んでいたときに、日本の文化を学ばなければ、と痛切に感じたという。今の自分には日本の文化をアメリカ人に伝えることができない、そういった悔しい気持ちを抱き、帰国してからあちこちの「源氏物語講座」を受講して歩いたとのこと。

「いろいろ受講したなかで、私がもっとも感銘を受けたのが、この〈ゆっくり読み返す源氏物語講座〉だったんです」

私はシェアハウスに住んでいて、さまざまな国の友達がいる。しかし、日本の文化や歴史などを伝えられないもどかしさがいつもある。東京オリンピックまでに、自信を持って外国人の方に日本文化を伝えられるようになりたい!

マダムはここで勉強して10年になるという。長い方では30年ぐらい勉強している方もいるこの講座では、まだまだ新参者だと笑った。 そういえば池田先生がいっていた。

「戦前、『源氏物語』は密通小説と蔑まれていました。当時読むことが許されなかった大好きな源氏を、時間とお金にもゆとりができた今、こうしてじっくり読むことができて、少女時代に戻ったような気持ちなのです、という年配の女性もいらっしゃるんですよ」と。

〔講師の今日イチ〕「人間は言葉を扱うから、チンパンジーと違うんです」

〔大学のココイチ〕 この講座は多摩キャンパスではなく、お茶の水駅近くのレトロな駿河台記念館で行われます。場所を間違えたら大変なことになるので注意。

〔受講生のココイチ〕 押し花のしおりや、花柄の筆箱。鉛筆でメモを取る人が多かった。

 

取材講座データ
ゆっくり読み返す源氏物語講座 中央大学クレセント・アカデミー 2016年秋期講座

2017年1月20日取材

文・写真/渡邉麻衣子