殷の時代の甲骨文から
私たちは毎日あたりまえのように文字を使う。漢字、平仮名、片仮名。それらの文字のオリジナルは、中国で生まれた漢字だ。中国の文字である漢字を、私たちは自らの言葉の一音一音に充てて用いた。たとえば「あ」は「安」、「い」は「以」を用いて言葉を記録した。
では、漢字を生んだ中国ではどうだったのだろうか。その歴史に迫ろうとしているのが、白川静記念東洋文字文化研究所の客員協力研究員の高島敏夫先生である。
中国で文字が誕生したのは、殷(紀元前17世紀頃-紀元前1046年)の時代だといわれている。その文字は占いに使われた甲骨文だった。甲骨文とは、亀の甲羅や牛・馬の肩甲骨に書かれた文字で、占いに使われたものだ。
表意文字のもつ音が、表音的にも利用された時……
高島先生は語る。
「文字らしきものは新石器時代からありました。しかし、言語を記したというものが文字だとすると、何の言葉を示しているのかわからないものは、文字ではなく記号になります。言葉を記すということは、言葉の音を記すということ。白川先生は『説文新義』で次のように記されています」(高島先生)
レジュメには次の文章が紹介された。
「象形・指事・会意はみな表意的な造字法であるが、文字は中国においては語を表記するものであるから、音をも示しうるものでなくてはならない。中国には、厳密な意味での音標文字はない。原則として、表意文字のもつ音が、表音的に他にも利用されるのである」(白川静著『説文新義』通論篇)
「文字がことばの全体を表記する体系をもつためには、形象化しがたい形式語・観念語の表記法として、表音的方法、象形文字の体系にあっては仮借(かしゃ)を用いる必要があり、逆説的ではあるが、象形文字の体系は仮借字の発見によって成立するともいえるのである。本来表意的である文字を表音的に使用しえたときに、はじめてことばの体系を文字に写すことができる。したがって仮借の法は、文字成立の条件となる。このことは象形文字として成立した古代文字のすべてにわたっていえることである」(同前)
「仮借」とは、ほかの文字によってその言葉をあらわすこと、わかりやすくいえば「当て字」だ。つまり、日本人が漢字を借りて平仮名の音をあらわしたように、古代中国においても、最初の文字である象形文字が、意味だけではなく「音」をあらわすようになって初めて、文字体系が出来上がったのだ。さらにそれは、漢字のみならず、すべての象形文字に言えることだと、白川先生は説いたという。
「古代ギリシアでは線文字Bと呼ばれる象形文字がいったん滅びます。線文字Bは表音機能を十分に具えるにいたらなかったからです。そしてその後、アルファベータ(アルファベット)が考案され、表音機能を具えるようになったのです」(高島先生)
そして人々は、自分の言葉を記録する文字というものを持ったのだ。
文字は特別な言葉である「雅語」を記すもの
では、何のために文字は生まれたのだろうか。それは単に、自分たちの口頭言語を記録するためのものではなかった。
「文字は口頭言語をなんでもかんでも記すものではありませんでした。一部の特殊なものを記録することに使われたのです」
古代中国にも日常的な会話のほかに、特別な時にだけ用いる「雅語(がご)」という口頭言語が存在したという。「雅語」といっても、「みやびな言葉」という意味ではない。言語学者である河野六郎氏と西田龍雄氏の対談をまとめた『文字贔屓』(三省堂)によれば、雅語とは、文語的なもの、話し言葉から遊離した文章語、文学的な言葉、文章語的な表現、雅語、文語、書写語などと定義されている。
興味深いことに、雅語は文字文化の有無に関わらず、どの民族にも存在するという。たとえば日本では、アイヌ民族に雅語の文化があった。祝儀・不祝儀、首長同士の外交の挨拶、英雄伝、裁判の判決などだ。
「文字の始まりは、この雅語を記録するためのものだったと考えています」と高島先生は言う。自著『甲骨文の誕生 原論』(人文書院)で高島先生は、甲骨文字や金文で記されたのは雅語だったと記している。実際、甲骨文字は占いの結果を亀の甲羅や動物の骨に刻んだもので、特別なものである。
文字が生まれると、文字が広く普及すると考えられがちだが、文字が生まれた後も口頭言語の世界が根強く残るのは普遍的な現象で、漢字の場合も例外ではないという。文字を積極的に使うようになる時代までには、なお数百年以上も要したのである。
孔子の時代も文字は普及していなかった
文字は時代とともに進化する。殷を滅ぼした西周(紀元前1100年頃-紀元前771年)の時代になると、青銅器に鋳込まれたり刻まれたりした金文が現れる。一般的には、甲骨文が殷代の文字で、金文が周代の文字と解釈されるが、高島先生はそのように時代で明確に区切れるものではないという。事実、西周時代の遺跡から甲骨文が出土するなど、明確に区切ることができない。
西周時代中期になると、ようやく周独自の文化が芽生えてくる。この頃の書体は「緊湊体(きんそうたい)」と呼ばれ、文字の大きさが均一で整っているのが特徴だ。上の写真では、右が西周の前期の文字、左が中期の緊湊体(きんそうたい)だ。ひと目で違いがわかるだろう。
しかし、元々文字を使える人は殷系の氏族だけだったのだが、西周時代に入ると、それ以外の人たちの間でも、文字を使える人が次第に増えてくる。特に西周中期頃からそうした時代に入るという。中には文字を知らなかった人が、見よう見まねで書いたと思われるような稚拙な文字もあって、当初は偽刻だと思われていたという。ところがその後、正式な発掘によって出土した青銅器の中にもそのような稚拙な文字が刻られた青銅器が発見され、それらが偽刻ではなかったことが判明したのだという。
紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移し、春秋時代が始まる。儒教の始祖として有名な孔子が 活躍した時代であるが、その頃も文字を書くということはそれほどポピュラーなことではなかったという。実際、論語も孔子が書き残したものではなく、孔子やその弟子たちの言葉が口頭で伝承されてきたものを、孔子の孫弟子たちの時代になって整理したものだ。近年、ちょうどそれに近い時代(戦国中期)の竹簡(ちっかん)がたくさん出土するようになったが、その頃から文字で記録することがかなり積極的に行われるようになったことを示しているのだという。
改めて思う、文字の奥深さ。漢字は表意文字でありながら表音文字である極めて特殊な文字だが、だからこそ東アジアに広まったのだ。
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