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修験道の開祖・鬼神を使う男と朝鮮渡来文化の繋がり

 

修験道の開祖、役小角(えんのおづの ※「おづぬ」の呼び名もある)は、謎の多い人物だ。謎めいたことほど人の心を惹きつける。「呪術」や「修行」という言葉にひかれながら、金任仲先生による明治大学の「古代日本と朝鮮渡来文化」第8回目〈役行者と山岳信仰〉(2016年秋講座)の授業に参加した。

役小角とはいったい何者か!?

そもそも修験道とは何か。

『日本国語大辞典』(小学館刊)には、「山林抖(と)そうを修行の要諦とする仏教の一派。護摩を焚き呪文を誦し祈祷を行ない、山中に入って難行・苦行を嘗めて、霊験を修得することを業とする」とある。山を霊地として崇拝する山岳信仰に、密教思想などが加わってできた日本独特の宗教だ。 役小角はその開祖として、飛鳥時代から奈良時代に活躍した呪術者とされている。講座名にある通り“古代日本”に生きた人。その人物と朝鮮渡来文化が本当につながっているのだろうか。

金先生が用意した資料は、『続日本紀』(延暦16[797]年に奏上された平安初期の官撰国史)と『日本霊異記』(弘仁年間[810-824]頃成立した日本最古の仏教説話集)。『続日本紀』には、役小角の出自も、呪術の内容もはっきりと書かれていない。だが、『日本霊異記』にはそれを補足する資料があるという。講座はそこからスタートした。

「孔雀の呪法」を身につけたが島流しに・・・

役行者が修業したと言われる山上ヶ岳の役行者像

『日本霊異記』の上巻第二十八の説話には、役小角について「大和国葛木上郡茅原の村の人なりき」と説明されている。生まれながらに博学だったそうだ。さらに、五色の雲の上に乗り、空の外に飛び回り、仙人の宮殿で仙人たちとともに遊び・・・と続いていく。ここまでくると、本当に実在の人物? と疑問に思ってしまうような記述。伝説と実在の人物像が入り混じっている。

『日本霊異記』にはさらに続いて、なぜそのようなことができるようになったのか、理由が書かれている。曰く「四十余歳で山ごもりをしていた。葛で作った粗末な衣をみにまとい、松の葉を食べ、清らかな水で沐浴し、人間界の欲を落とし、そして呪術的な作法を身につけていった」。そう、まさに「修行」イメージそのものだ。

役小角はそうして「孔雀の呪法」を身につけ、「異(あや)しき験力」を得て、「鬼神」を自在に使えるようになる。そうして「大倭国(やまとのくに)の金の峯と葛木の峯とに椅(はし)を渡して通わせ」などと鬼神に言わせたりしたものだから、謀反を起こそうとしているとされ、伊豆に島流しになった。

『続日本紀』にも、「丁丑(ひのとうし・二十四日)、役君小角、伊豆嶋に流さる」という記述があり、そこには役小角の簡単な紹介とともに、「韓国連広足(かんくにれんひろたり)が師なりき」と続く。役小角を師とした韓国連広足は、7世紀末から8世紀の日本にいた呪術者で、姓は連。呪禁(じゅごん)の名人として朝廷に仕えた。

その韓国連広足が、その後に師の能力を妬んで讒言(ざんげん)したという説がある(『国史大辞典』)。役小角の没したとされる時期から約30年後に昇進し、加えて、広足の氏が韓国であることからか、朝鮮半島からの渡来人系呪術師が、日本古来の呪術師を妬んで起きた事件と解釈する説もある(『新体系『続日本紀』注釈)。しかし、韓国氏は物部氏の分流であり、渡来人ではないという見解もあり、実際のところはわからないと先生は解説した。

小角にかかれば、神様さえ……

さて、『日本霊異記』には、伊豆への島流しにあった役小角のその後が書かれている。道照法師(どうじょうほうし・ちなみに弟子は行基。そして師匠は玄奘三蔵)が唐に渡った際、「五百虎の請を受けて」新羅に至り、その山の中で法花経を講じた時、虎たちの中に人間がいたというのだ。 その人物は倭語(わご)で問いかけてきたため、道照法師が「誰だ」と聞いたところ、それが役小角だった。法師は「これは我が国の聖人だ」と思い、高座から下りて役小角と会うことになった。そして、伊豆への島流しの原因となった「謀反を起こそうとしている」という話を吹聴した一言主(ひとことぬし)の大神は、「役行者(注:役小角の別名)に呪縛せられて、今に至るまで解脱せず」となった。

つまり、神様を呪縛してしまった、ということ……。ちなみに、一言主の大神とは、『古事記』に「葛城の一言主之大神」とも書かれているが、一言の願いであれば何でも聞き届ける神とされている。葛城山麓の奈良県御所市にある葛城一言主神社が全国の一言主神社の総本山。金先生の説明によれば、『日本霊異記』は仏教的説話集であり、いわば仏教が主役であるため、神道が脇役になっている。この話にもそんな影響が出ているのかもしれないとのことだった。

ここで不思議なのは、唐突に「新羅」という地名が出てきていること。その地の山中で、道照法師が役小角に出会っているのだ。なぜ新羅なのか、そして、そこで役小角の名前が「役行者」と変わっていることもよくわかっていない。新羅の山中で虎とともに役小角がいた、という記述からは、役行者がもっとも古く山ごもりを始めたということを指すのか。その地が新羅であったことは、新羅の山岳信仰と関係があるのかなど、金先生の興味もそこにあるようだった。

「きんぷせんじ」は常識?

平日の夜に行われているこの講座には、40人弱の30代から60代、70代の男女が集まっていた。男女比は6:4というところか。熱気はムンムン。全員が前のめりで話を聞いていて、メモをつぶさにとっていたり、先生が配布してくれた資料に黄色の蛍光ペンでしきりに線を引いていたり。さらには、金先生が何の解説もなく「金峯山寺(きんぷせんじ※奈良県吉野町にある金峯山修験本宗の本山)に……」と口にしても、この講座では常識のようで誰一人として「それって何?」という反応を示さない。

「きんぷせんじ」という音だけで、それが何を指しているか普通にわかる、という人はそうそういないだろう。質問もマニアックだった。『日本霊異記』に出てくる語で「藤の宮」とあるが、それは「藤原京」ではないのか? といったかなり専門的な疑問を受けて、先生が穏やかに「それはわからないので、次の機会までに調べてきます」と答えていた。

内容、受講生のレベルともに、高度だなあという印象だった。古代日本に興味関心のある大人の求道者が集まる講座。飛鳥・奈良時代が好きな人にはたまらないだろう。 講座終了後には、1階のカフェで懇親会をすると言う。参加する受講生も金先生も楽しみにしているようだった。好きな話題を思い切り楽しめる大人の時間。こんな世界があるとは知らなかった。

〔受講生の今日イチ〕マニアックな内容の講義に全員前のめり!

〔大学のココイチ〕アカデミーコモン1Fガラス張りで落ち着いた「カフェパンセ」。講義後に懇親会もできる。

〔おすすめ講座〕古代日本と朝鮮渡来文化

取材講座データ
古代日本と朝鮮渡来文化 明治大学リバティアカデミー 2016年度秋期

2016年12月22日取材

文/まなナビ編集室 写真/(c)英明 立脇 – Fotolia