京都の美しい景観の陰にある、社寺の努力と防災意識

京都・清水寺から錦雲渓を隔てて山中にたたずむ「子安塔」。鮮やかな朱色は見る人に強烈な印象を残す。「この風景は、過去に失われる危機に瀕していたのです」と語るのが、立命館土曜講座「歴史文化都市の防災と建築史学」の青柳憲昌先生(同大・理工学部講師)。そこには京都の社寺をめぐる知られざる歴史があった。

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京都・清水寺から錦雲渓を隔てて山中にたたずむ「子安塔」(c)peia/Fotolia

京都・清水寺から錦雲渓を隔てて山中にたたずむ「子安塔」。鮮やかな朱色は見る人に強烈な印象を残す。「この風景は、過去に失われる危機に瀕していたのです」と語るのが、立命館土曜講座「歴史文化都市の防災と建築史学」の青柳憲昌先生(同大・理工学部講師)。そこには京都の社寺をめぐる知られざる歴史があった。

広大な領地を取り上げたが

三方を緩やかな山並みで囲まれた、山紫水明の地・京都。自然豊かな京都を愛し、鴨川のほとりに建てた自身の書斎に「山紫水明処」と名付けたのは江戸時代の思想家・頼山陽(らいさんよう)である。この風光明媚な地は今もなお観光客で賑わう。

明治の初め、土地制度改革を打ち出す新政府は、これら社寺の所有していた広大な領地を社寺から取り上げ、国有化した。この「上地令」により、京都の社寺は一挙に領地を失ってしまった。

誰も手入れをしなくなった林野は荒れ果てていった。そのため政府は明治23年、土地を元の社寺に返還することができる法律「国有林野法」を制定した。ただし、返還には条件があった。「国有林野法」には「社寺上地にしてその境内に必要なる風致林野は区域を隠して社寺現境内に編入することを得」という一節があった。〈理由〉があれば、上地令で失った境内を返しますよ、というのだ。

清水寺の「上地令」と「境内編入」による境内地の変化

清水寺の「上地令」と「境内編入」による境内地の変化

この境内地の返却を「境内編入」というそうだ。「境内編入」をするには、社寺が境内地の返却を求める理由を上申し、それを受諾してもらわねばならなかった。ここから、京都府立総合資料館が所蔵する行政文書が紹介されていくのだが、それが実に面白かった。「え!? あの寺院が!?」という有名寺院の例がいくつも挙げられたのだ。

防火用の溜池をつくるからと子安塔を移築

清水寺の伽藍再整備計画(明治33年)

清水寺の伽藍再整備計画(明治33年)

たとえば「苔寺」の通称名で知られる西芳寺。「山林の優美なることは古来世人の賞賛するところに御座候なり」という風景美の理由で、境内地が返還されている。

しかし、清水寺による境内編入願いは手が込んでいた。

本堂の裏、現在地主神社があるところに防火用の溜池を作りたい、だから地主神社を門前に移築する、当時門前にあった子安塔は、本堂の向かい側の山手に移築する。そして、子安塔の周囲に新しい伽藍を整備したい……

なんて壮大な計画! でも結局、この部分の溜池の建設は認められなかった。だから地主神社は今もあの場所にある。でもなぜか、子安塔だけは移築される運びとなったのだそうだ。

ところで、清水寺があえて「防火用の溜池」の建設を申請したのには理由があった。

防災のためという申請なら返却された

青柳先生は、京都府内の社寺の「境内地編入」の理由を記した文書を調べた。それによると、防火、防風、砂防などの災害の必要性に迫られた申請はほぼ100%土地を返却され、風景美の理由だけではあまり認められなかったそうなのだ。

つまり、都の美観を守るとされる「風致地区」であるが、ただ美しいところをとっておきたかったのではなく、その制定の目的のひとつに防災があったのだ。

この「風致地区」、1926年に東京の明治神宮周辺の地区が初めて指定されたといわれる。京都では1930年から指定が始まった。しかし青柳先生は、それよりも以前、この1899(明治32)年に制定された「国有林野法」に、風致地区の原点を見出したという。

明治政府になって社寺の領地が没収されたことは知られているが、国の管理が行き届かないから、ならば理由付きで返却することにしよう、ということだったとは。「境内地編入」が京都エリアを形づくる大きなキーとなっていたのだ。京都と防災についての検証は、今後のさらなる調査が待たれる。

◆取材講座:「歴史文化都市の防災と建築史学」(立命館大学土曜講座  第3194回)

文/植月ひろみ 図版/青柳憲昌

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