ブラタモリ「田園調布駅はパリを…」。その約30年前の某都市計画もパリを

江戸・東京まちづくり物語

1月20日放送の「ブラタモリ」(NHK)のテーマは「田園調布」。田園調布がどのようにして超高級住宅街になったかが詳しく解説された。駅から放射状に延びる街路、そして凱旋門を模したような駅舎、これらはパリを模したもので、1918年に開発が始まった。じつはその約30年前にもパリのような街並みを目指して計画された東京の都市計画があった。それが日比谷官庁集中計画だ。

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在りし日の鹿鳴館(国立国会図書館データベースより)。このそばにパリに似せた日比谷官庁街ができるはずだった。

1月20日放送の「ブラタモリ」(NHK)のテーマは「田園調布」。田園調布がどのようにして超高級住宅街になったかが詳しく解説された。駅から放射状に延びる街路、そして凱旋門を模したような駅舎、これらはパリを模したもので、1918年に開発が始まった。じつはその約30年前にもパリのような街並みを目指して計画された東京の都市計画があった。それが日比谷官庁集中計画だ。

鹿鳴館の設計者コンドル、井上の期待を裏切る

明治維新から今年で150年。当時近代化に目指した日本は、欧米列強に追いつこうと前のめりの西欧化を行った。1883年竣工した華やかな社交場・鹿鳴館もそのひとつだ。あれだけ名前は有名なのに、どこに建っていたのか知っている人は少ない。なぜなら残っていないから。

鹿鳴館は皇居にほど近い、日比谷の地に建っていた。計画を推進したのは外務大臣・井上馨(かおる)。設計したのは、ジョサイア・コンドル。イギリス・ロンドン出身で、西欧から日本に来た初めての建築家だった(彼より早く来日し、銀座煉瓦街を設計したトーマス・ウォートルスは土木技師だった)。

首都大学東京オープンユニバーシティ「江戸・東京まちづくり物語〈東京編〉」講師の東秀紀(あずま・ひでき)先生(元首都大学東京教授)によれば、鹿鳴館の出来に満足した井上は、次に日比谷全体をパリのような街並みをもつ官庁街に作り変えようとして、その都市設計をやはりコンドルに任せた。

しかしコンドルはあまり都市計画が得意ではなかったようで、そのプランは、派手好きの井上の望むものとは、まったく異なる地味なものだった。

ビスマルクも魅了されたパリのような街に

「当時、フランスの首都パリは世界で最も美しいと言われた都でした。フランスとプロイセンが戦った普仏(ふふつ)戦争(1870-1871)で勝利したプロイセン首相でドイツ帝国首相のオットー・フォン・ビスマルクは、パリに入城してその華麗さに魅せられてしまいます。そして帰国した彼は、首都ベルリンをパリと同じような美しい都に作り変えようとしました」(東先生)

パリの都市計画とは、19世紀にナポレオンⅢ世がセーヌ県知事オスマンに命じて行わせた開発で、古い建物を壊し、都市を次のようなものにドラスチックに作り替えることだった。

(1)中世からの曲がって狭い道を作り直し、広く真っ直ぐなブールヴァールと呼ばれる幹線道路を引き、両側に並木を植えた歩道を設ける。
(2)道路工事のために接収して壊した建物の跡に、高さやデザイン、様式など外観の揃った建物を立て直して、まるで遠近法の絵のような新しい街並みをつくる。
(3)中心的位置には、オペラハウスや凱旋門などのシンボル的建築、構築物を置き、そこから放射状に道路が延びる構成とする。
(4)衛生的な上下水道を整備し、多くの健康的公園を配置する。

19世紀のパリが衛生的な町かというと、やや疑問な部分もあるが、とにかく井上はパリやベルリンを模した、派手なプランをコンドルに期待していたのである。

しかしコンドルは、直角にきっちり区画した、シンプルで地味なプランを出した。これにがっかりした井上は、ドイツの世界的建築家である、エンデ&ベックマン事務所にプランを依頼し直した。

その都市計画はまるでパリだった

そこで出てきた案は、下のようなものだった。

エンデ&ベックマンの日比谷官庁集中計画プラン

当時鉄道が開通したばかりの新橋駅(汐留駅)から更に鉄道を北に延伸させたところに、中央駅をつくって、その前に放射状の道路をもつ広場を設け、周りを東京府庁や警察庁、裁判所、劇場(オペラハウス)、鹿鳴館、ホテル、レストランなどが取り囲む。 そして皇居の向いの日比谷方面に進み、博覧館、博覧会場を通り抜けると、外務省をはじめとする官公庁の西洋館がずらりと並び、そこから国会議事堂、首相官邸がある丘までは、緩やかな坂を登っていく、という演出豊かなデザインだった。

派手好きな井上はこのプランに満足し、さっそく実行に移そうとしたが、1887年、欧米との不平等条約改正の作業がはかばかしくないと世論の非難を浴び失脚してしまう。

官庁集中計画のうち、旧司法省など建設された建物もいくつかあるが、多くは中断し、この計画自体、潰えていった。

鹿鳴館の歴史にも幕が下ろされた。

そして、鹿鳴館の華やかな歴史にも幕が下ろされた。

鹿鳴館が社交界の花形であったのは、わずか数年に過ぎない。竣工したのは1883年、全盛期はわずか4年ほどで、1890年に宮内省に払い下げられた。

その後は華族会館として使用されたり、生命保険会社に払い下げられて物置同然に使用されたりしていたが、太平洋戦争開戦前年の1940年、土地の有効活用のために取り壊された。

一部を除き幻に終わった日比谷官庁集中計画。華やかで短い命を歴史に刻んだ鹿鳴館。それらがもし今の日比谷にあれば、どんな街になったのだろうか。

◆取材講座:「江戸・東京まちづくり物語」〈東京編〉(首都大学東京オープンユニバーシティ)

文/まなナビ編集室 写真/国立国会図書館、SVD 図版/蓬生雄司

-講座レポート

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