小さな港町がいきなり“極悪な町”に
「映画が公開された当初は、とくにヒステリックな雰囲気はありませんでした。しかしアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞すると、アメリカではスタンディングオベーションが起こり、一気に議論が過熱します」
記者も作品を観てみたが、とにかく物々しい。いきなり夜間のシーンから始まり、出演者はサングラスにマスクという怪しげな格好で車を運転していて「パトカーが来た!」などと騒いでいる。日本ではどこにでもある看板が意味ありげに映し出される。夜間にパトカーが巡回する、日本人なら治安が守られているなと思うような映像も、不穏な町のような印象を与えるように取り上げられている。また、ドキュメンタリーとはいうが、主演のリック・オバリー氏が以前はシーシェパードと関与があったり、大げさに路上に倒れて痛がり泣き崩れた女性は女優だったりと、本当にドキュメンタリーなのかという疑問が湧き上がった。
「『イルカは知能が高い』『そんなイルカを捕らえる太地のイルカ漁は残酷だ』などの発言があり、騒動は拡大。さらに上映中止をめぐって表現の自由論争に発展するなど、完全に太地町を置き去りにして盛り上がっていきました」
では実際の太地町はどんな町なのか。
「とにかく、遠くて小さい町という印象でした。東京からは新幹線で名古屋まで1時間40分、そこからJRに乗り変えて、太地駅までは5時間かかるんです。合計6時間40分。これは新幹線で東京から博多へ行くよりも遠いんです。紀伊半島の先端にあり、那智勝浦町に囲まれた人口3000人ほどの小さな町です。駅を降りたところから、とにかくイルカを前面に押し出した街づくりをしているのに驚きました」
映画では恐ろしいムードで紹介されていたオブジェやフェリーも、吉田先生が撮る写真からは明るく屈託ないものに見える。街にはクジラの供養塔があり、4月には供養祭が行われる。クジラやイルカが食べられる食堂に行けば、あらゆる部位の肉が出てくるという。命をいただくことに敬意を払い、いただいた命は無駄にしない姿勢だ。
イルカの大群を実際、目の前にしたら
「太地町には、大きな産業がありません。近くに肉類を飼育する場所もない。そこに、目の前にイルカの大群がいたら、それを食べずにいろと言う方が難しいでしょう」
女装パフォーマーの芸で「有名なアニメやドラマのセリフを切り取って組み替え、下品な小話にする」ものがある。環境問題を訴える未来世界のストーリーが、彼らの手にかかると淫乱な人物が男性を誘う物語になるのだ。なんの問題もない無邪気なセリフも、切り取り方とジェスチャーによって、ものすごく下品な意味に変わる。『ザ・コーヴ』にはそれと同じ、悪意のある「ねじれ」があるのではないか。
そうしたねじれやフィルターを取り去って、太地町を見たときに残るのは、何百年もの間、決まりを守って漁をし、静かに暮らしていた人たちが、いきなり極悪な町の住人として世界にさらされたということだ。
今年も9月に太地町ではイルカの追い込み漁が始まる。昨年9月のニュース記事には「太地でイルカ漁始まる、世界が注視」というタイトルが付けられた。『ザ・コーヴ』前の太地町にはもう戻れないのだ。
ちなみに、その後の捕鯨調査では、鯨が増えたために鯨に食べられる魚が大幅に増えたことが判明した。鯨類は海洋での食物連鎖の頂点に位置する。では人間が鯨類を捕食することは、食物連鎖として位置付けることはできないのか、という新たな問題も出てくる。
さて最後に。テレビや新聞・雑誌などのメディアでは広く公開できないことでも、ライブでなら語れることがたくさんある。これが公開講座の大きな魅力だ。この日も、かなりきな臭い話や現地での裏話、レイシズムについてなど、盛りだくさんだった。やはり“ニュースの街を歩く”話は面白い。
〔ニュースを知る関連講座〕
ニュースメディアから英語を学ぶ〔中級〕
国際時事問題入門
取材講座:「ニュースの街を歩く」第2回「イルカを食べちゃいけませんか? 和歌山県太地町」(早稲田大学エクステンションセンター中野校)
文/和久井香菜子 写真/和久井香菜子(講座風景)、SVD