結婚は親が行なうものだったが
早稲田大学教授の松園伸先生は「イギリス貴族『ダウントン・アビー』からみる〈戦間期〉英国」講座(早稲田大学エクステンションセンター)で、イギリス社会を読み解く3つのポイントを、 (1)階級 (2)宗教 (3)ネイション(民族)だと指摘する(詳しくは前の記事「『ダウントン・アビー』に学ぶ英国の階級・宗教・民族」を参照)。そして、この3つが複雑にかかわりあう人生の一大事が、“恋愛”と“結婚”である。
当時のイギリスは、上流階級、中流階級、労働者階級が明確に分かれており、『ダウントン・アビー』ではしょっちゅう、身分違いの恋に悩む男女が出てくる。そんなに悩むくらいなら最初からお見合いでもすればよいのに、と思ってしまうが、そのとおり、当時の貴族の婚活は、親が行うものだった。その舞台となるのが、ロンドンのタウンハウスである。
英国の世襲貴族は地方領主のような存在だったから、ダウントン・アビーのような“カントリー・ハウス”(貴族の邸宅)を持ち、所領を経営していた。しかし同時に貴族院議員でもあり、その務めも果たさなければならなかった。そのため、貴族たちは議会のあるロンドンに“タウンハウス”を持ち、一族郎党(もちろん使用人も)で滞在した。
ロンドンは政治の中心であると同時に、社交界の中心でもあった。子供や孫を社交界にデビューさせ、結婚をまとめるためにも、ロンドン滞在は大事な行事だった。いわば親がかり、一族がかりで婚活をしたのである。松園先生によると、裕福な貴族は、カントリーハウスやタウンハウスのほかに、暖かいポーツマスや飲泉で有名なバースなどのリゾート地に別荘を持つこともあったというから、そういう場ではタウンハウスとは一味違ったロマンスがあったにちがいない。
しかしどんなにお膳立てをしても、子供は親の想定外の恋人を選ぶものだ。『ダウントン・アビー』ではグランサム伯爵ロバートの三女シビルは、労働者階級の運転手ブランソンと恋人になる。ブランソンはイングランドを激しく憎むアイルランドの出身で、しかもカトリック教徒。階級も宗教もネイションも違う。二人は困難を乗り越え結婚するが、出産時に死亡したシビルの愛娘の洗礼式をめぐって、カトリックかイギリス国教会かでひと悶着が起こる。
そして最も複雑なのが、スコットランドのフリントシャー侯爵の令嬢ローズの結婚をめぐる一幕(シーズン5)である。
イギリス国教会信徒とユダヤ教信徒が結婚するには
ローズは、ロバートの旧友でスコットランドに領地を持つフリントシャー侯爵と、ロバートの従妹スーザンとの間に生まれた末娘。フリントシャー侯爵夫妻がインドに赴任するに際し、グランサム伯爵邸に居候させることとなった。
ローズの恋人がアティカス・アルドリッジだ。アティカスの両親・シンダービー卿夫妻は、もちろんイギリス国籍だが、ユダヤ人でユダヤ教徒。対してフリントシャー侯爵はスコットランド人でクリスチャン。シンダービー卿は非ユダヤ教徒のローズがシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)で結婚式を挙げることに反対し、フリントシャー侯爵夫人や教会もユダヤ教徒との結婚式を教会で挙げること(教会婚)を許さない。そこで若い二人は“民事婚”を選ぶのである。
キリスト教徒にとって教会とは、かつてはその人間が生まれてから死ぬまでのすべてを見届けるところだった。生まれると洗礼を受け、結婚式も教会で挙げ、遺言を残す際も作成は本人と弁護士が行うが、遺言を収めるのは教会。葬式も当然教会で行われ、教会に葬られる。人生儀礼のすべてが教会で執り行われるのだ。そのなかでもイギリス国教会の定める教会婚はとても面倒なものだった。3連続日曜日の「結婚予告」や、大主教発行の「結婚許可証」など、こまごまとした規則が定められていた。
19世紀以降、こうした規則に縛られた教会婚に異議を唱える立場から、民事婚(シビルマリッジ)というものが徐々に増え始める。牧師は立ち会わず、登記所に結婚登録をしておしまいというシンプルな結婚式だ。さすがにローズの場合はこれで終わりというわけにはいかず、形ばかりの祝福の儀式を教会で行うが、ベールも被らないものだった。
イスラエル建国にも役割を果たしたロスチャイルド家
この民事婚のシーンで、先代グランサム伯爵夫人バイオレットのセリフが効いている。メアリーに「おばあさまは民事婚に出るのは初めて?」と聞かれ、さすが物知りで経験豊かなバイオレット、「1878年にローズベリ伯爵とハンナ・ロスチャイルド男爵令嬢の結婚式で経験済みよ」と答えるのである。ローズベリー伯爵はスコットランド国教会の信徒。そしてロスチャイルドはヨーロッパ最大のユダヤ系銀行家ロスチャイルドの一族である。
松園先生によれば、作中に登場するシンダービー卿は、ロスチャイルド男爵をモデルにしたものだという。金融業を生業とするロスチャイルド家は、早くからヨーロッパ中にブランチ(支部)を作り、巨万の富を築いた。イギリスに溶け込むために多大な努力をし、一段一段階段を上がるように平民からナイト爵になり、准男爵になり、そして男爵となった。イギリスにはびこる反ユダヤ主義のなか、それだけ溶け込みながらも、しかしロスチャイルド家はキリスト教への改宗を拒否した。そしてイスラエルの建国にも大きな役割を果たしたという。
持参金は村一つ二つ買えるくらい
さて、話はまた、ロンドンのタウンハウスに戻る。ローズとアティカス・アルドリッジの結婚に際し、双方の両親の初顔合わせは、ローズが世話になっているグランサム伯爵のタウンハウスである“グランサムハウス”で行われた。当時のイギリスは純然たる男社会なのに、なぜ新婦側の家で行われるのだろうか。
松園先生はこう解説する。
「当時は、まだ持参金結婚の風習が残っていたんです。これから新婦は新郎の家に入ってお世話になる。だから結婚式までは新婦がまかなうことになっていました。持参金の額も桁外れで、新婦側の家の収入によっては、村一つ二つ買えるくらいにのぼります。今でもイギリスでは挙式や披露宴の費用は新婦側がもつ例が多く見られます。
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文/まなナビ編集部 写真/(c)wayne / fotolia