「物はない、事がある」仏教は現実世界をそう捉える

【Interview】竹村牧男 東洋大学学長が語る仏教の話(その4)

仏教の思想について、東洋大学の竹村牧男学長に聞いてきたが(前の記事「「無我」と「縁起」を理解すれば仏教思想は腑に落ちる」)、ではこの現実世界で起こっている現象を、仏教はどう捉えているのだろうか。今回は“唯識(ゆいしき)”という概念について聞いた。

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仏教について語る東洋大学の竹村牧男学長

仏教の思想について、東洋大学の竹村牧男学長に聞いてきたが(前の記事「「無我」と「縁起」を理解すれば仏教思想は腑に落ちる」)、ではこの現実世界で起こっている現象を、仏教はどう捉えているのだろうか。今回は“唯識(ゆいしき)”という概念について聞いた。

リンゴはそこにある物なのか、それともそこにあるという事なのか

仏教は、この現実世界に生まれては消える現象を、どう捉えているのだろうか。竹村先生は、“唯識”という世界観が大乗仏教のベースにあると語る。

「たとえばここにリンゴがあるとします。赤い、丸い、甘酸っぱい匂いがする。だからリンゴと認識します。つまり私たちは、五感の流れを基にして、それが何なのかを認識するのです。

でもそのリンゴは常住本体ではありません。横を向けばリンゴは見えなくなる。これは視覚の変化です。そこに何か別の強い匂いが流れてくれば、リンゴの匂いは消えてしまう。これは嗅覚の変化です このように、ものを認識していたはずの五感も、つねに変化してやまないものなのです。つまり、直観的な五感の世界に“物”はない。そこにあるのは“事”なのです。このように、世界は刻々と変わる五感を通して意識されているに過ぎない、と考えるのが“唯識”です」

五感は、眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)。これにさらに第六の“識”として意識があり、さらに第七には自我への執着の識(未那識)があり、さらに第八には“阿頼耶識(あらやしき)”と名付けられた過去の一切の経験を収める“識”があるという。

「“識”がとらえるのは、そこにある“物”ではなく、時々刻々と変化していく“事”です。そのため、唯識は唯事論といってもよいでしょう。事的世界観ですね」

私はあなたで、あなたは私

聞いているだけで、ほう~と肯いてしまいそうな高次元の世界観だが、竹村先生によれば、この“唯識”に加え、“華厳(けごん)”そして“密教”にも、高度な思想が流れているという。それが今回の東洋大学の公開講座「「『仏教入門』~日本人の心に脈々と生きる仏教とは何か~」で、唯識(11月25日「唯識の世界観」)、華厳(2018年1月27日「華厳の世界観」)、密教の曼荼羅(同3月24日「密教の曼荼羅思想」を選んだ理由だという。

まずは華厳から。

「前の記事で、かけがえのない自分も関係性の中にあると話しましたが、“華厳は”まさに無限の関係性の中に自分があると説くものです。それを華厳では 『事事無礙(じじむげ)』(事物と事物がお互いに妨げ合うことなく溶け合っている)と表現しています。また、その事物と事物の関係は、重重無尽(じゅうじゅうむじん)といって、相互に無限の関係をもつのです。華厳ではよく『松は竹であり、竹は松である』『私はあなたで、あなたは私である』といいますが、これこそ究極の世界なのです」

密教の曼荼羅は“人人無礙”か

「この世界観を人間のかたちであらわしたものが、密教の曼荼羅なのではないか」と竹村先生は言う。

「密教の曼荼羅は、諸仏諸尊を絵で表しますが、それらは一人ひとりでありながら、一人が全体でもあり、全体が一人でもある。事事無礙に対して、曼荼羅は“人人無礙(にんにんむげ)”の世界だと私は思っています。その人人無礙の中でのかけがえのない個である自分。これを見出すのが密教なのではないかと考えています。

これほどまでに思想的に深い世界が、仏教の中にあるのです。それをぜひ、一人でも多くの人に知っていただきたいと思っているのです」

(続く)

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取材・文・写真/まなナビ編集室

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