「またひとり殺せた」─マンガ『夕凪の街』のセリフの深い意味を考える国語授業

学校教育におけるマンガの可能性を探る

「早稲田大学教育総合研究所 教育最前線講演会シリーズ25 学校教育におけるマンガの可能性を探る」では、マンガを教育に取り入れた各種事例が紹介された。その登壇者のひとり、開成中学校・高等学校で国語を教える森大徳教諭は、「文章と絵を効果的に組み合わせて表現をするマンガは、国語の授業で『読み取る』力を伸ばすひとつの手段として、取り上げる価値があるのではないか」と語る。

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「早稲田大学教育総合研究所 教育最前線講演会シリーズ25 学校教育におけるマンガの可能性を探る」では、マンガを教育に取り入れた各種事例が紹介された。その登壇者のひとり、開成中学校・高等学校で国語を教える森大徳教諭は、「文章と絵を効果的に組み合わせて表現をするマンガは、国語の授業で『読み取る』力を伸ばすひとつの手段として、取り上げる価値があるのではないか」と語る。

結論ありきの「平和学習」にはしたくない

森大徳氏は開成学園で中学生に国語を教えている。開成と言えば、日本を代表する進学校だ。そうした学力の高い生徒が多い学校で、一人ひとりの人生があることを授業の中で感じてほしいという思いがあったという。

「戦争や原爆というテーマを授業で扱いたいと、ずいぶん前から思っていました。なかなか踏み出せなかった理由のひとつは学期のカリキュラムの中で授業を構成するのに良い題材が長く見つからなかったこと、もうひとつは戦争や原爆について学習しようと生徒に伝えると、結論ありきの『平和学習』のように受け取られてしまう可能性が高かったことでした。なんとか生徒とともに魂をふるわせるような題材がないか探していました。そんなときに出会ったのが『夕凪の街』で、それがたまたまマンガだったんです」(森氏。以下「 」内同)

『夕凪の街』は、こうの史代氏の短編だ。こうの氏は『この世界の片隅に』の作者としても有名だ。舞台は、終戦後10年経った広島。主人公の皆実は、原爆を体験しながら生き残ったことへの後ろめたさを感じているため、恋愛にも踏み出せず、結婚には拒否反応を示すほどだ。そんな彼女が、打越青年とようやく心を通わせ、生きていくことに罪悪感を持たずに済むようになるかと思った矢先、病が急激に彼女の体を蝕んでいく。

森氏の話を聴講したその場で電子書籍『夕凪の街 桜の国』を購入し、帰りの電車で読んだ。終始、皆実の息苦しさが胸に迫り、電車の中で涙してしまった。無駄な展開が一切なく、使われている言葉はどれも美しく悲しい。心を揺さぶられる作品だ。

『夕凪の街』を題材に3段階での授業展開を

『夕凪の街』を題材にした授業は次の3段階で展開したという。

(1)マンガのコマを読み解く
(2)マンガのコマについて全体の文脈における意味を考える
(3)マンガのセリフについて全体の文脈における意味を考える

「(1)では、皆実が友人のために半袖のブラウスを仕立てた後『うちはええよ…不器用じゃし』と拒絶している理由を考えてもらいました。このシーンは、セリフの直前に半袖であらわになった友人の左腕とそれを見ている皆実の表情とがあり、後のページに入浴中の皆実が左腕にある傷を眺めているカットがあります。このセリフの皆実の心情を想像するには、このように重要なコマが直前にあることに気づき、さらに他の場面で描かれている表現と結びつけて考えなければいけません」

こうした一連の表現に気づき「皆実には左腕の傷があるから」と解答した生徒は1割に満たなかったという。これは「学習者が物語の内容を中心に読んでおり、どのように表現されているかまでは意識していなかったと評価できる」と森氏は言う。

「(2)のマンガのコマについて全体の文脈における意味を考える活動では、物語の最後『はがれて水面に落ちていく原水爆禁止世界大会のポスター、川辺に佇む打越、打越にもらったハンカチを握りしめて絶命している皆実の手というそれぞれのコマと、『このお話はまだ終わりません。何度夕凪が終わっても終わっていません』というセリフを、どのように解釈できるかをグループで議論してもらいました」

川に落ちたポスターは原水爆禁止の失敗を暗示している、通りかかる人が誰もポスターに目を向けていないことは皆実の死が人々の記憶にも残らないまま死んでいくことを意味している、それでも自分の手を握りながら思い出の川を見つめる打越は皆実を忘れないだろう、など、細部に目を向けた解釈が生まれた。生徒の多くは、それぞれの細やかな表現を物語全体の文脈に昇華させようと取り組んでいたという。

「(3)のマンガのセリフについて全体の文脈における意味を考える活動では、(1)と(2)を踏まえて、皆実の最期の言葉『十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て『やった! またひとり殺せた』とちゃんと思うてくれとる?』についてクラス全体で議論しました」

初めのうちは「せめて死ぬなら誰かに自分の死を喜んで欲しい」といった漠然とした発言が多かったが、次第に「またひとり」「殺せた」という言葉の意味をくみ取り、より細やかな表現に着目するようになったという。

事前学習としてサバイバーズ・ギルトも取り上げて

授業でこの作品を取り上げる前に『父と暮せば』(井上ひさし)を取り上げてサバイバーズ・ギルト(戦争などの悲惨な体験から生還した人が「私だけ生き残ってしまった」と感じる罪悪感のこと)について学ぶなど、読解に至るまでの道を丁寧に作り上げた。森氏は、重要かつ経験して欲しい部分を取り上げれば、こうした取り組みはほかの学校でも可能ではないかと考えているという。

筆者はマンガをレビューする仕事をしているが、実際に普段、ここまで細かな表現に意味を感じて読んでいるかは疑問だ。しかし描き手は間違いなく非言語の表現にもこだわっているはずで、何気ない風景や表情からも意味は生み出されるはずなのだ。そうでなければマンガのコマを埋めることはできない。自分がマンガを読む際の感度を上げるのにも大いに役立つ講座だった。

教育とは、子どもたちの可能性を引き出すことだ。小説も、映画も、マンガも、アニメも、等しく文芸・芸術作品と捉え、より多彩な表現の読解力を身につける機会を与えていってほしい。

◆取材講座:「早稲田大学教育総合研究所 教育最前線講演会シリーズ25 学校教育におけるマンガの可能性を探る」

文・写真/和久井香菜子

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