京都猛反発を抑えるべく東京はなし崩し的に首都になった

東秀紀先生の「江戸・東京まちづくり物語」(その2)@首都大学東京オープンユニバーシティ

来年は明治維新150周年。薩長(鹿児島・山口)を中心に盛り上がってきているが、「東京」も忘れないでほしい。東京が首都となったのは、明治になってからだからだ。しかし実は今にいたるまで、東京を首都と定めた明確な法律はないという。では、東京はいかにして首都に選ばれたのか。

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ユーモアを交えながら語る東秀紀先生

来年は明治維新150周年。薩長(鹿児島・山口)を中心に盛り上がってきているが、「東京」も忘れないでほしい。東京が首都となったのは、明治になってからだからだ。しかし実は今にいたるまで、東京を首都と定めた明確な法律はないという。では、東京はいかにして首都に選ばれたのか。

なぜ「京都」ではなかったのか

明治時代に東京を首都と定めるとか、東京遷都と明記した詔(みことのり)はなく、今も直接に唯一正式の首都とした現行法律はありません」と、首都大学東京で「江戸・東京まちづくり物語」講座を講義する元同大教授の東秀紀(あずま・ひでき)先生は語る。

「首都を京都以外に移そうという意見が出るのは、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月3日-6日)の直後です。大久保利通は、首都を大坂に移そうと言い出します。大久保は京都のような因習が強く残る地では、新政府の改革が進まない、と考えたんですね。たとえば、京都には方違(かたたが)えの風習が残っており、天皇はどこに行くにも、日にちや方角が忌みに当たる場合は、進む方向を変えたり日にちを変えたりしなければならなかった。近代にこれでは事が進みません」

大久保の大坂案はあっさり否決されてしまったが、京都から都を移すことについては賛同する者も少なくなく、江戸城開城後は、江戸が大本命の候補となる。その理由は次の4つだった。

(1)京都より都市基盤が整っている
(2)京都のような因習がない
(3)東北・北海道を含めれば、日本の中心に近い
(4)尊王攘夷から近代国家へと転換しようとしている新政府の方針を明らかに示せる

一時は東西両都案も

当時の江戸は、世界的に見てもインフラの整った都市だった。東海道、中山道(なかせんどう)、奥州街道など幹線道路が日本橋を出発点として各地につながっているし、江戸湊(えどみなと)には大坂をはじめ全国から、あるいは隅田川、多摩川を経て内陸地から、生活物資が運ばれてくる。

何しろ人口が違う。江戸が100万都市だとすると、大坂が30万台、京都は30万に少し届かないくらいの人口だった。その100万を支えるために、玉川兄弟が上水を引き、大岡忠相(おおおかただすけ)が火消制度・警察機構を整備するなどが、260年の間につづけられたのである。おまけに京都は山に囲まれ、大坂も狭いのに対し、東京は関東平野を控えて、都市拡大にも、郊外での食糧増産にも有利だった。

しかし、都を京都から動かすとは何事か、と京都の反対はなおもすさまじい。新政府も王政復古の大号令を出した手前、なかなか説得できず、佐賀藩からは東西両都案も出てくる始末だった。

岩倉具視の暗躍?もあり、なし崩し的に東京に

この間、鵺(ぬえ)のような動きをしながら、実は大久保と連携プレーをしたのが公家出身の岩倉具視(いわくらともみ)だったのでは、と東先生は推理する。

「岩倉という男は文字通りの政治家です。心の中では江戸に移すしかないと思っているが、そうはっきり言ってしまうと物事が収まらない。そこで、やっぱり京都でなくてはとか、大坂がいいかなとか、いろいろなことを言いながら、結局は東京に収まるように持っていく。こういう人は今も会社なんかによくいますよね」

その年(1868年)7月、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発布された。「東京」という名称を最初に使ったのは江戸時代後期の経世家、佐藤信淵(さとう のぶひろ)だが、この詔書は大久保利通が佐藤の書を読んで提言した結果と思われる。しかし、「首都」とか「遷都」といった言葉はなく、ここから明治天皇による京都と東京のめまぐるしい往還が始まる。

8月、明治天皇の即位の儀が京都で行われた(この後も昭和まで天皇即位は京都で実施)。10月、天皇は東京に行幸したが、12月には京都に還幸。翌1869年3月、天皇は1年後に京都に戻るという約束で東京に再び行幸した。しかしその1年後の1870年3月、東北平定のために京都への還幸が延期になり、そして1871年8月、京都に御所を残したまま、首都機能が全面的に東京へ移されるのである。

「奠都」であって「遷都」ではない

ここに東京は実質的に日本の首都となった。何の詔も法律もなく、なし崩し的に東京が実質的な首都となったのである。しかし子供たちに教える教科書では辻褄を合わせないといけない。そこで文部省が思いついたのが、「遷都」という言葉を使わなければよいのだということで、「奠都(てんと)」という言葉がいつの間にか使われるようになった。

もっとも、文部省が出した出版物で、「東京奠都(てんと)」という言葉が正式にあらわれるのが、なんと1941年の『維新史』という本なのだから首都問題が思いがけず長く尾を引いていることに驚かされる。この頃になると維新の時代とは違った政治的状況――つまり、社会の右傾化が、問題を別な意味で難しくしていたのかもしれない。

「奠都」とは「新たに都につくる」という意味で、「都を遷す」ことではない。当然、元の都も残っていることを含意する。そのため、京都ではいまだに、天皇が東京へ行ったのは「奠都」であって「遷都」ではないとする見方があるという。戦後つくられた「首都建設法」「首都圏整備法」などの法律も、確かに東京を対象とはしているが、東京のみが首都だとは言っていない。

このように複数の都市を首都扱いとする複都制は、かつて、ローマ帝国や中国の随・唐・元などでも採用されていた。しかしそれらは巨大な帝国の場合であって、日本のような規模の国では異例である。

大阪府が「都」になることも可能なわけ

日本での首都の問題は、そのあいまいさのゆえに明治、大正、昭和、平成といった、各時代と結びつき、移り変わっていく、と東先生はいう。

「首都を遷すという大事業にあたっても、法律などで定義することなく、なし崩し的に事実を先行させる。日本の事の進め方を象徴するような出来事です。そのために後になるとかつての事情ではなく、そのときどきの政治や社会の影響を受ける。戦争中に東京は府から都に移行しましたが、このときも理由を「首都」だからとは明言しなかった。そのため、いま大阪府が『都』になろうとすると、法律的には可能だというわけです」

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◆取材講座:「江戸・東京まちづくり物語」〈東京編〉(首都大学東京オープンユニバーシティ)

文・写真/まなナビ編集室

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