京都・三十三間堂の仏像はいったい何体?

【連載】国宝の見方が変わる「三十三間堂」

日本一大きな歴史的木像建造物は東大寺大仏殿。では、日本一長い歴史的木像建造物は何かご存じだろうか? 答えは京都の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)。その長さはなんと120メートル。その内陣には1000体以上の仏像が安置されている。

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三十三間堂の仏像安置図(『週刊ニッポンの国宝100』(小学館)第5号p9より)

日本一大きな歴史的木像建造物は東大寺大仏殿。では、日本一長い歴史的木像建造物は何かご存じだろうか? 答えは京都の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)。その長さはなんと120メートル。その内陣には1000体以上の仏像が安置されている。

後白河法皇がひとりで祈りを捧げるために

多くの人が修学旅行で訪れたことのある三十三間堂。正しくは蓮華王院(れんげおういん)という。蓮華王とは千手観音のことだ。蓮華王院本堂の内陣の柱間(はしらま)が33あることことから、「三十三間堂」と呼んでいる。現在の三十三間堂は建長元年(1249)の火災後に再建された2代目だ。

東に面して南北120メートルに伸びる長大な空間に仏像がひしめく光景は、一度見たら忘れられない光景。じつはここには後白河法皇の極楽往生を望む執念がつまっているのだ。

なんとこの空間は、「後白河法皇がただひとりで祈りを捧げるための空間として建立され」たという(『週刊ニッポンの国宝100』(小学館)第5号p16より)。

後白河法皇は平安末期、源平の戦乱のなか、なんと34年もの間院政を敷いた人物だ、その波乱の人生のかたわら、今様(いまよう=当時の流行歌謡をさす)を愛し、歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂した。また、仏教を篤く信奉したことでも知られている。

仏は常にいませども
現ならぬぞあわれなる
人の音せぬ暁に
ほのかに夢にみえたもう (『梁塵秘抄』より)

三十三間堂に一歩足を踏み入れ、千体もの観音像が居並ぶ風景に対すれば、戦乱の世に極楽浄土を求めてやまなかった後白河法皇の思いが伝わってくる。

33の数字に秘められたもの

ところで33という数字にはもうひとつ意味がある。観音菩薩が時と場に応じて姿を変えて衆生を救いにやってくる、その姿が33あるのだという。つまり、仏教の教えを具体的に建築に反映したものなのだ。

この観音信仰の背景には、当時の末法思想があった。これは釈尊入滅後の1000年の「正法(しょうぼう)」、次の1000年の「像法(ぞうぼう)」、そのあとに「末法」を迎え乱世になると信じられていた思想だ。そのため、末法を迎える11世紀後半から12世紀にかけて、来世の救済を願って三十三間堂のような千体観音堂が数多く造られた。しかし、都が焼け野原になった応仁の乱(1467─1477年)の災禍で多くが破壊された。三十三間堂は奇跡的に残った千体観音堂なのだ。

三十三間堂に安置された仏像の数は……

三十三間堂に安置されているのは、中尊である丈六の「千手観音菩薩坐像」、守護神の「風神・雷神像」、眷属(けんぞく=従者)の「二十八部衆像」(いずれも国宝)、そして「千手観音立像」1001体(重文)と合わせて、その数1032体!

これだけの仏像がどういう風に並べられているかというと、国宝の中尊の左右それぞれ10段に、千手観音像が各段50体ずつ階段状に並べられ、中尊の後ろにも1体安置されている。その光景に圧倒されてしまうが、じつは仏さま一体一体を見ると、さらに発見があるのだ。

(三十三間堂の「千手観音菩薩坐像」の持仏(右)と風神・雷神と二十八部衆の一部が原寸で見られる『週刊ニッポンの国宝100』第5号「国宝原寸美術館」より)

『週刊ニッポンの国宝100』(小学館)第5号「三十三間堂・洛中洛外図屏風 上杉本」には、国宝仏の一部が原寸で掲載されている。上に掲載したページのうち、右側は、千手観音菩薩坐像の40本の手のうちの1本が持っている髑髏(どくろ)だ。千手観音菩薩坐像は335センチもあるため、持仏も大きいことが、原寸だからこそわかる。

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文/まなナビ編集室 写真/(c)makkie1221/fotolia

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